以下の写真は万里の長城の山西省部分です。
万里の長城の山西省部分 「神怡舘」内部展示より
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-12-22
山西省 (トリップアドバイザー提供)
そして、万里の長城について、さらに調査を進めると、以下の「明時代の長城の地図」が出てきました。出典はアラチャイナです。
以下をよく見ると、山西省北部の大同市あたりで、万里の長城の西に向かう部分と南に向かう部分を東西に結ぶ部分があることが分かります。しかも、東西の途中のYanmenguanに「関、ゲート」などの要塞があることも分かります。
Yanmenguanは中国語で「雁門関」です。
Source:ARACHINA 出典:アラチャイナ
下の写真はそのYanmenguanの写真です。場所は山西省の大同市と太原市の中間に位置しています。
Yanmenguanは中国語で雁門関と書きます。下はグーグルマップで山西省内の「雁門関」(がんもんかん、Yanmenguan)の位置を示したものです。
「雁門関」、Yanmenguanの位置 出典:グーグルマップ
以下はWikipedia による「雁門関」(がんもんかん、Yanmenguan)の解説です。
◆雁門関(がんもんかん)
雁門関(がんもんかん、Yanmenguan)は、中国山西省の北部、代県の西北、雁門山(別名勾注山)中にある、古来からの関所です。北方の異民族の侵入に対する、中国側の防衛拠点であり、数多くの戦いが繰り広げられてきました。2001年に全国重点文物保護単位に指定されています。
雁門関のある雁門山は、東西の峰が対峙している様が門のようであり、そこを渡りの途上の雁が飛び抜けていくことから、雁門の名があります。中国の歴史を通じて、雁門関は、北方の異民族の南下に対する中国側の防衛拠点としての役割を担ってきました。
雁門関 出典:Wikipedia
戦国時代末期に、趙の武将李牧がこの地に拠って匈奴の侵入を防いだのを初めとして、漢代には匈奴や鮮卑、南北朝時代から隋唐にかけては突厥や回鶻(ウイグル)、沙陀、五代から宋代にかけては契丹などの民族の中原への侵入路となり、激しい攻防戦が繰り広げられてきました。
統計によれば、雁門関周辺で起きた戦いは大小1,700回を数えるとされています。ものすごい数です。
雁門関は北魏の時代には東関と西関が両置されていましたが、唐代より西関が雁門関と呼ばれるようになりました。元代に至って雁門関は廃止されますが、明の洪武7年(1374年)に、吉安侯陸享の手で修復され、やや東の位置に移されました。
以降、明代には瓦刺(オイラト)や韃靼(タタール)の侵入に対する上での、長城上の要衝として重視されるようになり、寧武関、偏頭関と共に外三関と呼ばれるようになりました。
出典:Wikipedia
以下はトリップアドバイザーとYouTubeから「雁門関」を示したものです。現在でもこの「雁門関」はしっかり形をとどめていることが分かります。
出典:山西観光局ホームページ
出典:山西観光局ホームページ
Yanmenguan「雁門関」
出典:Tripadvisor “Remote Chinese style Castle”
Yanmenguan「雁門関」
出典:Tripadvisor “Remote Chinese style Castle”
Yanmenguan「雁門関」
出典:Yanmenguan pass great wall in Shanxi China YouTUbe
Yanmenguan「雁門関」
出典:Yanmenguan pass great wall in Shanxi China YouTUbe
Yanmenguan「雁門関」
出典:グーグルマップ
下は雁門関の岩山の下を通るトンネルです。延長は5650mもあります。
雁門トンネル 出典:グーグルマップ
つづく
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