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トルコの世界遺産7

トロイの考古遺跡(1998年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産7です。

トロイの考古遺跡(1998年)


出典:Wikipedia

トロイア戦争

イーリオスの陥落

 イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなりました。

 この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられています。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見ました。

 この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアプロディーテーからスパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約されました。彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策しました。

 アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突しました。

 多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめました。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテーナーが考えて)、エペイオスに木馬を造らせました。

 この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落しました。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけでした。

イリオス遺跡


イリオス(トロイ)のものとされる遺跡。城郭都市(紀元前12世紀)
CherryX per Wikimedia Commons, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

世界遺産 トロイの考古遺跡

(トルコ)
 トロイの考古遺跡
 トロイの考古遺跡
 英名 Archaeological Site of Troy
 仏名 Site archéologique de Troie

 登録区分 文化遺産
 登録基準 (2),(3),(6)
 登録年 1998年
 公式サイト 世界遺産センター(英語)
 地図

イリオスの位置

使用方法・表示

シュリーマンによる発掘

 ハインリヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般の通念でした。

 このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意し、資金を集めるために商人になったと述べています。

 1868年、シュリーマンはトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘に見当をつけました。アキレウスがヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明です。

 1870年、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始します。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっています。シュリーマンの狙いは正しく、曲輪に囲まれた遺跡を発掘しました。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとしました。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものでした。

 シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかりました。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからです。確かにシュリーマンの間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は大きく傷ついていました。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であったのです。

 1882年からドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルトが発掘に参加。
 8年後の1890年、トロイ第7a市、メガロン(ギリシャ建築の宮殿)跡を発掘、第7層がホメロスのトロイと判定しました。
 1896年2月26日、シュリーマン死去、デルプフェルトは仕事を続ける。
 1893年〜94年、デルプフェルトは第7市の要塞を発掘、ホメーロス『イーリアス』のトロイを確証しました。


世界遺産7-2へつづく