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トルコの世界遺産9

チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡(2012年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産9です。

◆チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡 (2012年)





チャタル・ヒュユク祠堂復元模型
Georges Jansoone (JoJan) - self-made; own photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 チャタル・ヒュユク(-・ホユック,-・フユクとも;Çatalhöyük)は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡です。

 その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもあります。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となります。

 チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きいのです。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されています。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体です。

 西側の遺丘は、チャタル・ヒュユク西遺跡と呼ばれ、径400m、高さ7.5mで規模的には東側に比べて小さく、2期にわたる彩文土器の発達した文化層が確認されており、上層は、青銅器が出現するハラフ期(4300 B.C.頃)並行とされ全体的にやや新しいと言えます。

研究史


チャタル・ヒュユクの遺構検出状況。家屋がすし詰めのように築かれている様子がわかる。
Stipich Béla - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 チャタル・ヒュユクは、1958年に発見され、1961 - 1965年にかけてジェームス・メラート (James Mellaart)によって発掘調査されて、世界的に知られるようになりました。。メラートは、200ヶ所近い建物を調査し、チャタル・ヒュユクが少なくとも0,I - VIA,VIB - Xの13の層とさらに下層があることを確認しました。

 最下層に至るまではさらに7m掘らなければならないと推定されました。以後トルコ政府によって調査が禁止され、遺跡は1993年9月にケンブリッジ大のイアン・ホダー (Ian Hodder)[2]によって調査されるまで放置されることになりました。

 ホダーの調査は、他に先駆けたコーリン・レンフリュー (Colin Renfrew)[3]の研究手法を取り入れた野心的なものでした。考古科学の手法に加えてチャタル・ヒュユクの壁画が表現しているシンボリズムについて心理学者や芸術家たちに解釈をするよう従事させました。チャタル・ヒュユクはメラートによってその複雑性が記録されましたが、真の意味での「町」、「都市」、「文明」というよりも巨大な村落として記述されました。


チャタル・ヒュユクの南側地域
CC 表示-継承 3.0, リンク
Source:Wikimedia Commons

チャタル・ヒュユクの建築遺構

 チャタル・ヒュユクの集落は、ゴミ捨て場を持つ家々によって構成されていた。いくつかの家には「居間」よりも大きな部屋がありましたが、これが公共的な物であったのか、住民の間では職業分化ないし分業が行われていたのかははっきりしていません。このような広い部屋は、何らかの儀式など特別な目的で使用されたと思われるものの、今ひとつはっきりしません。

 チャタル・ヒュユクの本体である東側の遺丘は、最大で総人口10,000人に達したと推測されます。もっとも、チャタル・ヒュユクの集落の数千年に及ぶ歴史の中で人口は変化しており、平均的には5,000人から8,000人ほどであったと考えられています。

 チャタル・ヒュユクの住民は、互いに隙間なくすし詰めのようにくっついていました、一部屋が平均25m2程度の土レンガでできた集合家屋に暮らしていたと思われます。通路や窓のようなものは存在せず、蜂の巣のように密集して寄り集まっている家々の天井板の穴から入り、木製のはしごを使って外へ出る仕組みになっていました。つまり、チャタル・ヒュユクの家の扉は、現在の家と違って屋上に付いていたことになります。

 このような変わった家の構造ができた理由ははっきりしませんが、一説にはライオンなどの猛獣や外敵の侵入を防ぐための工夫ではないかと考えられています。このように窓が一切なく、出入口が屋上にしかない建物であれば、住民たちは非常時に屋外のはしごを取り外すだけで、猛獣や外敵の侵入を簡単に防ぐことができたのです。


チャタル・ヒュユク住居内部復元模型
Stipich Béla - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


チャタル・ヒュユク住居内部復元模型
Stipich Béla - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wkipedia Commons


世界遺産9-2へつづく