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トルコの世界遺産12

エフェソス (2015年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産12です。

・エフェソス - (2015年)


出典:Wikipedia

 エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置しています。

 古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれます。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市でしたが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙があります。

 現在は遺跡が残っているのみです。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れています。2015年に世界遺産リストに登録されました。

概要

 エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられています。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国の首都アパサ( Apasa)がエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えています。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっています。

 古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名でした。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれました。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身です。


エフェソスのアルテミス
David Stanley from Nanaimo, Canada - Statue of Artemis, CC 表示 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽しました。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削りましたが、この試みは失敗し、ヘロストラトスという名が伝わっています。アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられています。


アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての
世界三大図書館の一つ、エフェソスのセルシウス図書館の跡地
英語版ウィキペディアDkozicさん, CC 表示 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


ローマ時代の劇場跡
San Francisco, United StatesからJordan Klein - Flickr, CC 表示 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 エフェソスはヘレニズム都市として栄えましたが、紀元前2世紀に共和政ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされました。共和政ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られています。

 その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となりました。

 現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていました。劇場は当時最大のもので、5万人が収容されました。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったのですが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されてゆきjました。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものでした。

 エフェソスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡、エフェソの信徒への手紙がある(パウロに帰せられますが、真筆書簡かどうかには疑いがあります)。また伝承では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられています(ただしこの伝承の史実性は疑問視されています)。

 イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられています。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っています。

 4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となりました。その中でも重要なものは、東ローマ(ビザンツ)皇帝テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェソス公会議と、単性説と三位一体論の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェソス強盗会議です。この決定は後に覆されました。


聖母マリアが余生を送ったと言われる建物『聖母マリアの家』
Casalmaggiore Provincia - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 東ローマ帝国の下でも、エフェソスは引き続きアシア属州の首都として繁栄しました。政治と経済の中心であり、また府主教座が置かれる教会行政の中心でもありました。多神教が禁止された後、一部アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ、石材が搬出されるとともに、一部は住宅地に侵食されてゆきました。

 エフェソスの神殿の石材の一部はコンスタンティノポリスの建築資材としても使われました。7世紀に入ると、ペルシアやアラブの勢力拡大を受け、7世紀半ばに城壁が設けられました。この頃になると、港の沈降が進み、近郊の港が外港として使われるようになりました。

 また帝国の官僚や教会は、古来の都市からアヤソルクの丘に中心を移しました。その結果、市域は分散し、また拡大しました。その後も経済活動は活発に行われましたが、8世紀に至りアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから、東ローマ帝国はエフェソスを放棄しました。港が完全に埋まったのはその後のことです。

 現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部です。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つになっています。

 2015年に世界遺産に登録されています。『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問しています(1967年パウロ6世、1979年ヨハネ・パウロ2世、2006年ベネディクト16世)。

世界遺産 登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
脚注


世界遺産13へつづく