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トルコの世界遺産14

アニの考古遺跡 (2016年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産14です。

・アニの考古遺跡 (2016年)


出典:Wikipedia


アニ トルコ
haigoes - https://web.archive.org/web/20161018134031/http://www.panoramio.com:80/photo/17749526, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 アニ (アルメニア語: Անի; ギリシャ語: Ἄνιον, Ánion; ラテン語: Abnicum; グルジア語: ანისი, Anisi;トルコ語: Anı, 英語: Ani)は、アルメニア人によって中世に建設されたシルクロードの商業都市。現在のトルコ共和国・カルス県にあり、アルメニア共和国との国境近くです。

 
アニはトルコとアルメニアの国境にあるアルパチャイ渓谷に、シルクロードの商業都市として9世紀初めに建設されたまちです。

 961年から1045年までのアニは、今日のアルメニア共和国からトルコ共和国東部までの広い範囲を領土としたバグラトゥニ朝アルメニアの首都でした。
シルクトードなど様々な交易ルートが交わる場所にあり、アニにある多くの宗教建築物・宮殿・要塞は、技術的・芸術的に見て世界でもっともすぐれた構造を有していました。

 アニは「千と一の教会がある都」と表現され、
最盛期には約100,000の人口を有したとされています。長きにわたって華麗さや壮麗さで知られていたものの、1236年にはモンゴル人によって略奪され、1319年の地震によって荒れ果てました。その後、17世紀までには単なる村へと落ちぶれ、ほとんど忘れ去られました。

 アニはアルメニア人にとっての文化的・宗教的・国家的な遺産として広く認識されています。2016年には「アニの考古遺跡」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

地理


アニの街とその周囲の地理
www.armenica.org - www.armenica.orgOriginal upladed to en.wikipedia: en:Image:AniMap.gif, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 東側はアフリアン川の渓谷、西側はBostanlar谷やTzaghkotzadzor谷に挟まれた、天然の要塞といえる三角形の場所に位置しています。アフリアン川はアラス川の支流であり、トルコ共和国とアルメニア共和国の自然的国境を形成しています。火山性凝灰岩からなる丘の上に位置しており、その標高は約1,340mです。この地域の中心都市であるカルスはアニの42km西にあります

歴史

 5世紀にはイェギシェやGhazar Parpetsiのようなアルメニア人年代史家が初めてアニに言及しました。丘の上に建つ強固な要塞として、またアルメニア人のカムサラカン家の所有地としてアニを説明しています。

バグラトゥニ朝の首都


アニの旗
Gegart - upload to ru-wiki, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source: Wikimedia Commons

 かつてArsharunik のカムサラカン家が有していた領土や、今日のシラク地方に相当する領土(アニを含む)は、9世紀初頭まで、アルメニア人のバグラトゥニ家の領土に組み込まれていました。804年、バグラトゥニ家の首領であるアショト4世 (806年–827年)は、イスラーム王朝のアッバース朝からアルメニア公の称号を与えられました。

 イスラーム王朝のカリフは宗教政策的な観点から、勢力が及ぶ範囲で他宗教の教会の新設は許さなかったとされていますが、アルメニアでは例外的に多数のアルメニア教会が新設された。

 バグラトゥニ朝 (885年-1045年)における最初の首都は、アニの40km南に位置するバガラン であり、その後アニの25km北東に位置するシラカヴァン に移されましました。929年には首都がカルスに移されましたが、961年にはアショト3世 (治世953年–977年)によって首都がアニに移されました。

 つづくスムバト2世 (治世977年–989年)はアニの街の発展に力を注ぎ、聖堂や多くの教会が建設されました。ドヴィン がイスラーム教徒に破壊されたのを機に、アルメニアのカトリコス(総主教)座はドヴィンからヴァン湖を経て、992年にアニに移されました。

 これによってアニは首都であるだけではなく、アルメニアの宗教的な中心地にもなっています。10世紀のアニの人口は50,000から100,000と推定されています。

最盛期

1000年頃のバグラトゥニ朝アルメニアの領土

 アニの勢力がピークに達したのは、ガギク1世の治世(989年-1020年)です。かつてのアニは重要な交易路には沿っていなかったのですが、その都市規模・勢力・富などが理由で、この時代には重要な交易拠点となっていました。当時の西アジアでは人口100万人を数えるバグダッドが経済の中心にあり、他地域でも商業都市の地位が高まった時代でした。

 アニは「40の門がある都市」「千と一の教会がある都」として知られ、バグラトゥニ朝の歴代の王の霊廟はアニに建設されました。主な交易相手には、ビザンツ帝国、ペルシア帝国、アラブ人、また南ロシアや中央アジアの小国家などがありました。アルメニア高原からの産物には、木工品、金属類、ヴァン湖産の乾燥魚、岩塩、アラス川産の塩漬け魚、染料、絹布、綿製品、皮革製品、織物などがありました。


アニ主教座大聖堂
User: Hansm at q373 shared, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 バグラトゥニ朝の時代にはアルメニア教会建築が花開き、今日のアルメニア共和国にはこの時代の教会が数多く残存しています。アニ主教座大聖堂 は989年から1001年にかけて建設されたものであり、三方後陣型のドーム・バシリカ様式からなります。

 後のセルジューク朝による占領後にはモスクとして使用されていましたが、13世紀になると再びアルメニア教会として使用されるようになりました。聖グリゴル教会は1001年から1010年にかけて建設されました。当時のこの街にはアニのトゥルダト という傑出した建築家がいました。

 ガギク1世の死後には二人の息子が対立しました。弟のホヴァネス・スムバト (1020年-1041年)がアニを支配下に置き、兄のアショト4世 (1020年-1040年)がバグラトゥニ朝の残りの部分を支配下に置いた。

 今や弱体化したバグラトゥニ朝がビザンツ帝国に攻撃されることを恐れ、ホヴァネス・スムバトはビザンツ皇帝バシレイオス2世を自身の後継者としました。バシレイオス2世はホヴァネス・スムバトより早く1025年に亡くなったものの、1041年にホヴァネス・スムバトが死去すると、ビザンツ皇帝ミカエル4世がアニの主権を主張しました。

 バグラトゥニ朝の親ビザンツ派がアニの街をビザンツ帝国に渡そうとしましたが、バグラトゥニ朝の新王となったガギク2世 (1042年-1045年)やその支持者らはこれに反対し、アニは独立した状態でとどまっています。ガギク2世はアニを奪うために送られたビザンツ軍を幾度か撃退しました。

 ガギク2世はビザンツ帝国に対する嘆願のために首都コンスタンティノープルに赴いたものの、そこで退位を強要され、結局は1046年にビザンツ帝国に降伏しています。その後はビザンツ帝国がアニの統治者を任命しました。


世界遺産14-2へつづく