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トルコの世界遺産10

オスマン帝国発祥の地

ブルサとジュマルクズク
(2014年)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産10です。


出典:Wikipedia

 オスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記されます。

 15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服、この都市を自らの首都としました。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及びました。

概要

 アナトリア(小アジア)の片隅(
ブルサ)に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展しました。

 その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きいものがありました。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となりました。


スレイマン一斉
Nigârî - Library of the Topkapi Palace Museum, Hazine 2134, fol. 8a., パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めました。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させました。

 19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現しました。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土アナトリアを開発しました。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れました。

 敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、アンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命しました。

 1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言しましsた。結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられました(トルコ革命)。


オスマントルコの発祥地ブルサ


ブルサ
see above (compilation: Zaparojdik) - cc-by-2.0 by cenk altıGFDL/Cc-by-sa-3.0 migrated by CitratGFDL/cc-by-sa-3.0 by DarwinekGFDL/cc-by-sa-3.0 by DarwinekGFDL/Cc-by-sa-3.0 migrated by Ninlilcc-by-sa-3.0 by Alfisti.bacchusGFDL/cc-by-sa-3.0 by DarwinekSource/author/license missing, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 ブルサ (Bursa) はトルコ北西部の都市です。ブルサ県の県都。
人口は約234万人。トルコ第4の都市です。スキー場で知られるウルダー山 (Uludağ, 2,443m) の山麓に位置し、市内に公園などの緑が多く残されていることから、「緑のブルサ(Yeşil Bursa)」との異名を持ちます。

歴史

 この地にあった古代の都市キオス(en:Cius)が、紀元前202年にマケドニア王ピリッポス5世からビテュニア王プルシアス1世に与えられ、その名にちなんでプルサ (Prusa) と名づけられたといわれます。

 
シルクロードの西端の都市として繁栄しました。1326年から1365年までオスマン帝国の首都が置かれていたため、オスマン帝国初期のスルタンたちの廟が残っています。首都がエディルネに移った後も帝国にとって重要な都市であり、後にヒュダーヴェンディギャール州の州都となりました。

 イスケンデル・ケバブ(ヨーグルトをかけて食べるケバブ)の発祥の地でもあります。

地理

 ブルサはトルコの北西部、マルマラ海とアナトリア高原の間の盆地にあります。マルマラ海から内陸に約20km、ウルダー山(英語版)(ウル山)の麓に位置します。


ウル・ジャーミィ
HALUK COMERTEL, CC 表示 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


ahşap türk evleri bursa
Mustafa DUMAN, CC 表示 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

ジュマルクズク  出典:TRT 「トルコの観光」 第16回~ジュマルクズク~

 トルコのマルマラ地方にある元来の歴史の手触りを守り、本物の歴史的な家々や道々がある可愛らしい村、ジュマルクズク・・・です。オスマン帝国時代のアナトリアの村の暮らしがどんなものだったかに関心を寄せる人々を、この村が迎えてくれます。

 
ジュマルクズクは、同じ県の内側にあるブルサとともに2014年にユネスコ(UNESCO)の世界遺産に指定されました。この地域は、オスマン帝国の建国を目撃したことでも重要な地域です。

 世界遺産地域である「ブルサとジュマルクズク:オスマン帝国の誕生」は、ブルサにある6か所の遺産を含んでいます。それは、オルハン・ガージー複合施設とその周辺を含むハンラル地域、ヒュダヴェンディガル複合施設、ユルドゥルム複合施設、イェシル複合施設、ムラディエ複合施設、そしてジュマルクズクです。

 オスマン帝国の最初の首都となったブルサは、14世紀初頭から社会・文化・貿易の観点から次第に発展しました。オスマン時代にはこの町に何十ものモスク、メドレセ(神学校)、陵墓、隊商宿、ハマム、救貧院、治療院、屋内バザールが建設されました。ブルサの都市化モデルは、その後建設されたオスマン・トルコの諸都市の見本となりました。


ジュマルクズクのまちなみ
出典:UĞUR Ok グーグルマップ


ジュマルクズクの家
出典:Murat Çaşkurlu グーグルマップ

 ブルサを世界遺産にした豊かな歴史の手触りには、アナトリアの一国家から世界帝国にまで発展するプロセスを生き生きと見せてくれる軌跡があります。

 およそ700年続いたオスマン帝国の時代に建設された建物は、訪れる人々を時の旅にいざないます。

 ブルサの町の中心まで13キロメートル、ウル山のふもとにあるジュマルクズク村は、歴史的な手触りも伝統的な生活スタイルも今日まで守ってきました。初期オスマン建築様式を反映する独特な家々、雨の日に水が流れるように真ん中に水の通り道が作られた平面の石畳の道々、記念碑的な建物を抱える、まるで屋外博物館のような町が、アドベの家々、色とりどりの壁、道々にある泉により、皆さんを現代から過去にいざないます。

 ジュマルクズクは毎年何千人もの観光客を迎えていますが、村の農業は昔ながらの姿を変えることなく続いています。村人たちは、自分たちで作った品物を、村の広場のはた織機のもとで売っています。

 ブルサを訪れたならば、見事な美しい自然を持つウル山を見て、癒しの水で有名な温泉に行き、ブルサの絹を買い、この地方の有名な料理であるイスケンデル・ケバブやお菓子のケマルをいただきます。


世界遺産11へつづく