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トルコの世界遺産14-2

アニの考古遺跡 (2016年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産14-2です。

アニの考古遺跡 (2016年)

衰退期


聖グリゴル教会
Ggia - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 この時代にはビザンツ帝国ももはや影響力を低下させており、イスラーム勢力のセルジューク朝がこの地域に侵入することを阻めませんでした。1064年、アニはアルプ・アルスラーンに率いられた巨大なセルジューク朝軍の攻撃を受けました。

 アニの町は25日間包囲された後に奪われ、住民は虐殺されました。セルジューク朝による侵略後には、アニのアルメニア人の一部がルテニア(現・ポーランド南東部)に移住しました。1072年、アニはセルジューク朝によってイスラーム系クルド人王朝のシャッダード朝に売却されました。

 シャッダード朝はアニの町に圧倒的に多いアルメニア人とキリスト教徒に対して融和政策を行い、実際にバグラトゥニ貴族の何人かはクルド人と結婚しています。シャッダード朝があまりにも不寛容な統治を行うと、アニの住民は常にキリスト教徒のグルジア王国に対して支援を求めました。

 1124年から1209年までの間に、グルジア人は5回もアニを勢力下に入れていますが、最初の3回はシャッダード朝によって奪還されましました。1199年にはグルジア王国のタマラ女王がアニを支配下に置き、ザカレ・ザカリアン将軍とイヴァネ・ザカリアン将軍に対して街の統治権を与えました。

 アルメニア=グルジア軍を率いたザカリアン家は、アルメニア高原の多くの部分を再征服し、階級制度による宮廷を確立しました。1199年には地中海沿岸のキリキアにあったキリキア・アルメニア王国がローマ教皇に承認されたことで、ヨーロッパから南コーカサスを経由してアジアに至る交易路が開かれました。アニにはすぐに繁栄が戻り、街の防御は強化され、多くの新しい教会が建設されました。


Church ruins in Ani
Martin Lopatka - https://www.flickr.com/photos/apothecary/5887144628/, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

アニの都市計画

 1226年にはモンゴル人による包囲を退けましたが、1236年にはモンゴル人による侵入を受けて略奪され、住民の多くが虐殺されました。アニから退去させられた住民の一部は、ヨーロッパとアジアの交易拠点であったクリミア半島に移住しました。

 約20万人ものアルメニア人農民・商人・職人・兵士・貴族がクリミアを目指し、14世紀までのクリミアには多くのアルメニア教会が建設されています。ザカリアン家はグルジア人ではなくモンゴル人の家臣としてアニの統治を続けました。14世紀までのアニはジャライル朝や黒羊朝などのトルコ人王朝によって支配されました。

 アニは1319年の地震によって荒廃しました。1380年代にはイスラーム王朝のティムール帝国の創始者であるティムールがアニを支配下に置きました。ティムールの死後には黒羊朝が再びアニを支配下に置きました。

 侵略と荒廃が続く混乱の状態にはありましたが、
アルメニア人商人はアルメニア高原からヴェネツィアやジェノヴァに至る交易路を用いて活発に活動した。商人が蓄えた富の一部は修道院への寄付や教会の建設に充てられ、アニには新しい教会がいくつか建設されました。

 1441年にはアルメニアのカトリコスの座がアニからエレバンに移されました。その後はペルシア人のサファヴィー朝がアニを支配しましたが、オスマン・サファヴィー戦争 中の1579年にトルコ人のオスマン帝国の一部となりました。少なくとも17世紀中頃までは城壁の内部に小規模な街が残っていましたが、1735年までには最後の僧侶が修道院を去り、アニの街は完全に放棄されました。

近代


マルが主導した発掘作業(1905年–1906年)
パブリック・ドメイン, リンク
Source:Wikimedia Commons

 露土戦争後の1878年に結ばれたベルリン条約で、アニを含むオスマン帝国のカルス地方はロシア帝国に帰属することとなりました。1892年にはアニで初の考古学的発掘調査が行われ、帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーが主催、ロシア人民族学者のニコライ・マルが監督しました。

 1904年にはアニでマルの発掘調査が再開され、1917年まで毎年行われました。街の大部分が専門的に調査され、多くの建築物が発掘されて測量されました。

 発掘物は研究が行われた後に、遺跡や博物館を紹介する学術雑誌やガイドブックなどに掲載されました。遺跡全体が調査されたのは初めてのことでした。崩壊の危険を有していた建物では緊急修復が行われた。マルの調査中には数千点にも及ぶ品々が発掘され、保管場所としてアニに博物館が設置されました。

 この博物館は2つの建物に入っており、片方はマヌーチヒルのモスク、もう片方は博物館用に建設された石造建築です。近隣の村や町からは、定常的にアルメニア人がアニを訪れるようになりました。地元のアルメニア人児童に教育を施すための学校の建設、公園の建設、遺跡を美化するための植樹などが、マルの発掘チームによって考案されました。

 第一次世界大戦末期の1918年、オスマン帝国軍は新たに成立したアルメニア第一共和国の領土全体に進軍し、同年4月にはカルスを奪いました。トルコ人兵士がアニに接近したため、アニにある発掘品の避難が試みられました。マルの発掘作業にも参加していた考古学者のAshkharbek Kalantarによって、もっとも持ち出しやすかった約6,000の品々がアニから移動されました。

 さらにはロシア人学者のJoseph Orbeli の命によって、救い出された物品が博物館のコレクションとして整理されました。これらは今日のイェレバンにある
国立アルメニア歴史博物館のコレクションの一部分となっています。後には残されたあらゆるものが略奪されたり破壊されました。

 1918年10月30日にオスマン帝国が降伏したことによって、アニは一時的にアルメニア人の支配下に戻りましたが、トルコは1920年にアルメニア第一共和国に対する攻撃を再開し、アニは再びトルコの手に渡りました。1921年にカルス条約が締結され、アニを含む領域は新たに成立したトルコ共和国の内部に取り込まれました。

 1921年3月にトルコ大国民議会とボリシェヴィキ政府の間でモスクワ条約が調印されてからも、ソヴィエト代表団はアニやコグブをアルメニアに回復させようとしましたが、トルコ共和国はこれを拒びました。

 同年5月、トルコ共和国の大臣であるRıza Nur は、東部戦線の司令官であるキャーズム・カラベキルに対して、アニの遺構を「一掃せよ」と命じました。しかしカラベキルはこの命令をはっきりと拒否し、決して実行に移すことはなかったと回顧録に記録しています。

 しかし実際には、マルの発掘作業や建物の修復作業に関するあらゆる痕跡が一掃されており、Nurによる命令が部分的に実行されたことが示唆されています。


世界遺産14-3へつづく