シルクロードの今を征く Now on the Silk Road クサントス・レトーン (1988年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) トルコの世界遺産 世界遺産1 世界遺産1-2 世界遺産2 世界遺産3 世界遺産4 世界遺産5 世界遺産6 世界遺産7 世界遺産7-2 世界遺産7-3 世界遺産8 世界遺産9 世界遺産9-2 世界遺産9-3 世界遺産10 世界遺産11 世界遺産12 世界遺産13 世界遺産14 世界遺産14-2 世界遺産14-3 世界遺産14-4 世界遺産15 世界遺産16 世界遺産16-2 世界遺産16-3 世界遺産17 世界遺産17-2 世界遺産17-3 世界遺産17-4 世界遺産18 世界遺産18-2 次はトルコの世界遺産5です。 ◆クサントス-レトーン (1988年) ![]() 出典:Wikipedia ![]() クサントスの劇場と墓 Pot Noodle - Flickr, CC 表示 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons クサントス (ギリシア語: Ξάνθος, トルコ語: Ksantos) は古代リュキアの都市です。 現在のトルコ南部で地中海に面するアンタルヤ県にあり、早い時代の文献では、クサントスの言葉自体が、リュキア全体を意味していました。1988年に、ユネスコの世界遺産に、レトーンとともに登録されました。 都市遺跡クサントス ![]() 復元されたネレイド記念堂。 不明 - Jastrow (2006), パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons ![]() An actor and actress performing a play in front of the Nereid Monument, Room 17, the British Museum, London. The theatre company NMT Automatics performing Myths of an Island: Aeneas in Sicily in front of the Nereid Monument, Room 17, the British Museum, London. Actors Noah Young and Genevieve Dunne. Source:Wikimedia Commons Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる クサントスは、ギリシャ人がつけた古代リュキアの都市の名前です。 ヒッタイトやかつてのルウィ語の名前では、Arinnaでした。共和政ローマ時代に入り、この町は、クサントゥスと呼ばれるようになりましたが、これはギリシャ語の末尾「-os」が全てラテン語の末尾に見られるような「-us」に変化したからです。クサントスは、リュキアの文化と商業の中心地であり、のちに、ペルシャ、マケドニア、ギリシャ、ローマがこの土地を征服、占領しました。 クサントスは、古代ギリシャ及びローマ人の人々が多くの記述を残していることで知られます。ストラボンは、クサントスがリュキアにおける最大の都市であると記しました。ヘロドトスやアッピアノスはともに、紀元前540年ごろのハカーマニシュ朝征服劇を描いています。 ヘロドトスの叙述に従うと、ペルシャの軍隊は、クサントスの北部の平野でリュキアの軍隊と衝突し、撃破したとされます。その衝突ののちに、リュキアの軍隊は、クサントスへ撤退し、ペルシャの将軍ハパルグスの包囲を受けました。リュキアの人々は、クサントスのアクロポリスを破壊し、自らの妻子や奴隷を殺し、その上で、優勢に立つペルシャ軍に挑みました。しかし、戦闘の間に、クサントスに不在にしていた80人の女性を除き、当時のクサントスの人々は死亡しました。以上がヘロドトスによるペルシャのクサントス攻略戦の内容です。 ペルシャの占領の間、紀元前520年ごろには、クサントスには地方自治が展開され、独自の硬貨が鋳造されるようになりました。紀元前516年ごろには、クサントスは、ダレイオス1世が実施したサトラピーの1つに組み込まれました。リュキアは、ペルシア戦争の際に、ギリシャ側に転じた。考古学的調査に基づくと、おおよそ紀元前475年から470年の間に、破壊されました。 この破壊は、アテネ人のキモンの手によるのか、それとも、ペルシャの手によるのかの議論です。現状では、ギリシャ側、ペルシャ側のいずれにもこの破壊に関して、文献が残っていないため、知ることはできませんが、学者の中には、このころの破壊に関しては、偶発的な自然災害のためと考えています。 紀元前5世紀の最後の10年で、クサントスは、近隣のテルメソスを征服しました。 アレクサンドロス3世の征服活動に関しての記録は歴史家によって、大きく異なる。例えば、2世紀のローマ時代に活躍したギリシャ人歴史家アッリアノスは、征服活動は平和的に行われたと叙述しているのに対し、アッピアノスは、アレクサンドロスの征服によって、クサントスは略奪を受けたと叙述しています。 アレクサンドロスが死亡した後、クサントスは、アレクサンドロスの後継者たちの間で支配権は争われました。ディオドロス はクサントスは、アンティゴノス[要曖昧さ回避]からプトレマイオス1世の手に支配は移ったと記録している。アッピアノス、カッシウス・ディオ、プルタルコスのそれぞれの記録によると、 紀元前42年、ブルータスの手によって、再度、クサントスは破壊されたとされます。 しかし、アッピアノスの記録に基づくと、マルクス・アントニウスによって、再建された。ローマ時代の遺構として、アンフィテアトルムが残っています。 考古学的調査によって、クサントスでは、リュキア語とギリシャ語の文書が数多く発見されました。いくつかの文書は、2言語で記述されており、リュキア語の解読に大いに有用です。 ハーピーの墓 ![]() Part of monument of the Harpys at Xanthos, Turkey. The decorative work at the top is a clay replacement of a marble original held in the British Museum. Pot Noodle - Flickr, CC 表示 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons ![]() Lycian tomb next to the Harpy tomb, Xanthos, Lycia, Turkey Carole Raddato from FRANKFURT, Germany - Lycian tomb next to the Harpy tomb, Xanthos, Lycia, TurkeyUploaded by Marcus Cyron, CC 表示-継承 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons クサントスの代名詞のようなハーピーの墓は、箱形をしており、イギリス人考古学者チャールズ・フェローズが発掘、発見しました。彼が、発掘したものは大英博物館に収められています。ハーピーは、ギリシャ神話に出てくる上半身が女性で下半身が鳥の形をしています。5世紀に創られたと推定されるオリジナルは大英博物館にあります。 世界遺産登録基準 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 世界遺産6へつづく |