エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行

  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

トルコの世界遺産16

ギョベクリ・テペ (2018年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁
総合メニュー(西アジア)

トルコの世界遺産

世界遺産1    世界遺産1-2   世界遺産2    世界遺産3    世界遺産4  世界遺産5
世界遺産6   世界遺産7     世界遺産7-2  世界遺産7-3   世界遺産8  世界遺産9
世界遺産9-2
 世界遺産9-3   世界遺産10    世界遺産11    世界遺産12 世界遺産13
世界遺産14   世界遺産14-2  世界遺産14-3  世界遺産14-4  世界遺産15 
世界遺産16
  世界遺産16-2  世界遺産16-3  世界遺産17    世界遺産17-2
世界遺産17-3 世界遺産17-4  世界遺産18    世界遺産18-2 

 次はトルコの世界遺産16です。

ギョベクリ・テペ - (2018年)


出典:Wikipedia


ギョベクリ・テペ、2011年
Teomancimit - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


 ギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe) は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(前ウルファ、エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡です。

 遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及びます。地名は「太鼓腹の丘」の意です。標高はおよそ760メートルです。ドイツの考古学チームにより発掘調査が行われました。発掘は1996年から始まり、チームの指揮を執ったクラウス・シュミットが他界する2014年まで続いました。

 ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられました。祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られます。第一段階(先土器新石器A)では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられています。

 物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されています。各石柱は6メートル以上、重さは20トンです。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれています。

 第二段階(先土器新石器B)では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられました。遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている
構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャンによって明らかにされました。

 これはともすれば更新世を1000年遡行することになります。先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられました。比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のものも見られます。

 この構造物が何に使われていたのかははっきりしていません。発掘に携わったクラウス・シュミットは初期新石器時代の神殿だと信じていました。

遺跡の発見


ギョベクリ・テペの遺構
Zhengan - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 1963年にイスタンブル大学とシカゴ大学が共同で行った一般調査の中で初めてこの遺跡について記録されました。アメリカの考古学者ピーター・ベネディクトは遺丘に新石器時代の痕跡を認めましたが、ギョベクリ・テペを新石器時代の地層が東ローマ帝国時代、イスラム時代に墓地として覆われたものだと仮定しました。

 調査の記録のなかでは無数の燧石(フリント)について触れられていました。そして巨大な石灰岩の石板、すなわち丁字型の石柱の地上に現れている部分は墓標であると考えられた。遺丘は長い間農耕に晒されてきました。幾世代にもわたる地元住民がしばしば邪魔な石をどかしては積み上げてきました。その過程のなかで考古学上重要な遺構も破壊された可能性があります。

 1994年、先んじてネヴァル・チョリでの発掘に携わっていたドイツ考古学研究所(German Archaeological Institute)のクラウス・シュミットは次なる発掘場所を探していました。

 この地域の考古学の文献を見返しているとシカゴ調査団の残したギョベクリ・テペに関する簡単な説明が目に留まり、彼はもう一度調査をしてみようと決心しました。彼のネヴァル・チョリでの経験から、記述に残されていた燧石や石板が丁字型の石柱の一部であろうと見当をつけたものでした。

 翌年、彼はシャンルウルファ博物館(Şanlıurfa Museum)と共同で発掘に着手しました。すぐに巨大な丁字型の石柱が姿を見せます。そのうちのいくつかは明らかに粉砕しようとしたような痕跡が見られました。おそらく石柱を変哲の無い普通の岩と考えた農夫によるものです。近くの新石器時代の遺跡ギュルジュテペ(Gürcütepe)の発掘調査の開始は2000年を待つことになりました。

年代測定


発掘作業の様子
Creator:Rolfcosar - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 層序学はギョベクリ・テペの、少なくとも亜旧石器時代から始まる幾世紀にもわたる活動の痕跡を示しています。続く時代(先土器新石器A)に建てられた構造物は紀元前10千年紀のものと特定されました。先土器新石器Bの紀元前9千年紀に建てられた小さい建物群は地中に埋まったままになっています。

 いくつかの放射性炭素年代測定が行われています。標準偏差と誤差範囲で推定される年代を以下に記す。

 Lab-Number Date BP Cal BCE Context

 Ua-19561 8430 ± 80 7560–7370 enclosure C

 Ua-19562 8960 ± 85 8280–7970 enclosure B

 Hd-20025 9452 ± 73 9110–8620 Layer III

 Hd-20036 9559 ± 53 9130–8800 Layer III

 Hdサンプルは最も低い位置の木炭から採取され、これは実際に遺跡が使用されていた時代のものだと思われます。

 Uaサンプルは石柱に付着していたペドジェネシス炭酸塩から採取、これは遺跡が放棄された時代(すくなくともこの時期には放棄されていた時代)を示します。

構成

 ギョベクリ・テペは不毛で平坦な台地に位置しています。台地はあらゆる方向に扇状地を広げています。北へ向かうと細く伸びる台地がそのまま山脈へとつながります。それを除けば台地から伸びる尾根は急峻な勾配となり、あるいはそのまま断崖へと導かれています。

 遺丘に加えてこの尾根の上部にも無視できない人類の痕跡があります。発掘調査は遺丘の南斜面、イスラムの巡礼の痕跡を示すクワの木の南と西側で行われました。しかし遺物は台地の全域から発見されます。調査団は大量の石器を発見しています。


世界遺産16-2へつづく