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トルコの世界遺産16-3

ギョベクリ・テペ (2018年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産16-3です。

ギョベクリ・テペ -3 (2018年)

第二層

 第三層に見られた円形の構の建造は第二層に入ると小さい長方形の部屋の建造に取って代わられます。長方形の部屋になったことで、丸い構に比べてスペースを有効に使えるようにっていました。 この変化はしばしば新石器時代の到来を感じさせますが、依然としてかつての丸い構の特徴をなしていた丁字型の石柱が現れます。つまり第二層のこれらの建物も神殿としての機能を持っていると考えられます。

 第二層は先土器新石器Bに分類されます。いくつかの隣り合う、ドアや窓の無い四角い部屋の床は石灰で磨かれていてローマのテレゾーの床を彷彿とさせます。放射性炭素は紀元前8800年から紀元前8000年の遺構であることを示しています。

 いくつかの丁字型の石柱は1.5メートル以上の高さがあり、部屋の中央に据えられています。獰猛な表情のライオンの彫刻が施された石柱はそれが安置されている部屋の名前、すなわち「ライオンの柱の建物」のもととなっています]。

第一層

 丘の一番上の層になります。最も浅いのですが、もっとも長い期間を占めていた期間になります。この層は侵食による流出土砂を含み、遺構が宗教施設としての役割を終えたあとも農耕目的でされ、実質的に途切れることなく続いている層になります。遺構は紀元前8000年以降のいずれかの時点で意図的に埋められています。

 建物は主にフリントからなる瓦礫、石器、どこかから持ち込まれたと思われる動物の骨の下に埋まっていました。ビブロス石器(鏃などのウェポン・ヘッド)とおびただしいネムリク(Nemrik)石器に加え、ヘルワン石器、アスワド(Aswad)石器が埋め戻しに使われた石器に多く見られます。

人類史上の意義

 発掘が全体の5パーセントも進んでいないため、この遺跡に関するいかなる叙述も暫定的なものとして捉えるべきです。そもそもシュミットは、考古学調査技術の発展も見越してほとんどを手付かずのまま次世代にゆだねるつもりでいました。遺跡は先土器新石器Aに属しているというのが公式見解ですが、今のところ栽培植物や家畜の痕跡は見つかっていません。

 そのためこの地の人々は狩猟採集社会を形作って、しかし1年のうちのいずれかの期間はどこかの村に暮らしていた、と仮定されています。ごくわずかであるが、住宅地として使われていた痕跡も見つかっています。放射性炭素年代測定は、上で述べたように、第三層の一番若い部分は紀元前9000年頃に埋められている可能性があると示しています。しかしこの積み重なった遺跡は紀元前1万1000年までには、あるいはもっと早くから神殿としての機能を持っていたのだと考えられています。

 つまり遺跡の建造は陶芸、金属工学はいうに及ばず筆記や車輪の発明よりも早い、紀元前9000年前後に起こったいわゆる新石器革命、すなわち農業と畜産の始まりにも先立っています。にもかかわらずギョベクリ・テペは今まで旧石器時代や先土器新石器Aや先土器新石器Bとは無縁のものと思われていた高度な組織の存在を暗示しています。

 考古学者はあの巨大な柱を採石場から切り出し、遺跡のある100から500メートルを移動させるには500名以上の人手が必要だと見積もっています。柱は10から20トン、採石場に残されているものは50トンに及んでいます。これらの事実は社会的地位をもった宗教的指導者たちの存在をほのめかしています。

 すなわち彼らが作業を監督し、そこで行われた儀式をつかさどったと考えられます。であるならば、遺跡は聖職者階級の発展を示す最古の記録になります。これは中近東のほかの地域で発展したこのような社会階級よりもずいぶんと早いことになります。

 紀元前8000年の初頭、ギョベクリ・テペは必要性を失いました。農業と畜産業の発展がこの地域の社会に新しい価値観をもたらしました。それにより「ストーン・エイジ・ズー(第三層のこと)」はこの地域の古い社会、すなわち採集社会にとっての価値を失った。

 しかしこの建造物はただ打ち捨てられ風雨に侵され、忘れ去られることにはならなかったのです。それぞれの遺構は丁寧に300から500立方メートルの廃物に埋められました。廃物は主に細かい石灰岩の破片と石器によって構成されています。動物の骨や、中には人間の骨も見つかっています。なぜ遺構が埋められたかはわかっていないが、それがゆえに遺構が後世にまで残ることになったのです。

解釈


クラウス・シュミット。2014年、ザルツブルグ。
Ordercrazy - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 シュミットの考えではギョベクリ・テペは石器時代の、山の神殿だった。放射性炭素年代測定から見ても、様式の比較分析から見てもこれは現在見つかっている中で最古の宗教施設であると考えられます。シュミットは、自身が「丘の教会」と呼んでいたこの施設は周囲160キロの範囲の信徒たちをひきつけた巡礼の目的地だったと信じていました。

 たとえばシカ、ガゼル、ブタ、ガチョウなど地域で狩猟目的とされた動物の骨が多数見つかっています。それらには人為的に解体された痕跡があり、食べるために狩られ、または調理され、集会のために用意された食べ物の廃棄物と考えられます。

 シュミットはギョベクリ・テペを祖先崇拝の中心地で、施された動物の彫刻は死者を守る意味をもつと捉えていました。今のところ墓石や埋葬地などは見つかっていませんが 、シュミットは遺構の壁の後ろに死者を弔った痕跡が発見されるのを待っていると信じていました。

 シュミットはまた、遺跡を新石器時代の初期段階と関連付けて解釈していました。 ギョベクリ・テペを含むいくつかの遺跡が点在しているカラジャ山近辺の地域は、現代我々が栽培を行っている少なくともいくつかの穀物(例えばヒトツブコムギ)の原産地であることを遺伝学が示唆しています。

 現代の麦の栽培品種と野生の麦を比較したところ、カラジャ山で見つかったものが遺伝子的に最も近かったのです。カラジャ山は遺跡から32キロ離れたところに位置しています。この結果はこの地域で、現代我々が口にしている麦が初めて栽培されたという可能性を示しています。

 学者たちはこの結果を受け、新石器革命すなわち農耕の始まりはこの地域で起こったと考えています。シュミットも、他の学者と同様、野生の麦を野生動物(例えばガゼルの群れ、野生のロバなど)から守る必要性が、この地域のいくつかの流動的な集団が協力関係を築くきっかけとなったと考えています。

 野生の麦は以前よりも食料として積極的に用いられるようになり、そして慎重に栽培された。これが初期のギョペクリ・テペ近郊ののさまざまな集団をひとつの社会組織へと導いた要因と考えられます。したがって、シュミットによれば、新石器時代はごく小規模な菜園から始まったのではなく、「大規模な社会組織」という形から急速に発展したのです。

 シュミットは、他の神殿や民族との比較からギョベクリ・テペを築いた集団が持っていたであろう信仰体系についての推測を行っています。彼はシャーマニズムに見られる風習から、丁字型の石柱は人、とりわけ祖先を模したものと仮定しました。

 一方で後のメソポタミヤで広大な寺院と宮殿とともに発展した神々に対する信仰との共通点も指摘しています。この共通点は古代のシュメール人の信仰とよく合致します。すなわち、アヌンナキの神々が住む聖なる山エクルから人々に農耕、畜産、織物が伝えられたという信仰です。

 シュミットはこの話を中東の原始的な神話と位置づけ、この神話の中には新石器時代の発現に関する記憶が部分的に保存されているのだと考えていました。また、動物など描かれたレリーフや彫刻には暴力的な描写がない。狩りの様子や、傷を負った動物などは描かれていないし、モチーフとなっている動物にはこの社会が主に食用としていたであろう動物、例えばシカなどよりも恐怖を掻き立てるような動物、例えばライオン、ヘビ、クモ、サソリなどがおおく見られます。

考古学上の価値

 ギョベクリ・テペは人間社会の発達の歴史の決定的な段階に対する理解を大きく変える可能性を秘めており、考古学上特に重要な発見と考えられています。スタンフォード大学のイアン・ホッダーは「ギョベクリ・テペはすべてを変えてしまうと述べています。

 ギョベクリ・テペはモニュメンタルなアーキテクツの建設が必ずしも、これまで考えられてきたように、農耕定住社会に限られたことではなく狩猟採集民にも可能だったということを示しています。発掘に携わったクラウス・シュミットが述べるように「神殿から始まり、街が興った可能性を示しています。

 マクロな視点から見た場合の意義に限らず、いくつもの柱が並ぶ神殿がこの遺跡を独特なものにしています。同時代には同じような遺跡は存在していない。500年ほど下るネヴァリ・コリ、やはりドイツ考古学研究所が発掘調査を行った新石器時代の住居跡であり1992年よりアタトゥルク・ダム(Atatürk Dam)に沈んでいますが、こちらの丁字型の柱はずっと小さいものになっています。

 加えてこちらの神殿は村の中に作られています。およそ同時代と考えられる建造物であるエリコには美術的要素、大規模な彫刻は見られません。そしておそらく最も有名なアナトリアの新石器時代の村であるチャタル・ヒュユクはこれよりも2000年若いのです。

 現状ギョベクリ・テペの存在は先史時代について明らかにしたことよりもむしろ謎、疑問を多く生み出しています。定住に至る前の社会がこれだけのボリュームの構造物を建設し、拡張し、維持するに足るだけの労働力をどのように動員し、どのような形の手当てが支払われたのかはまったくわかっていません。

 学者たちはピクトグラムを解読できていません。これら動物のレリーフが神殿を訪れるものに対してどのような意味を持ったのかという謎は残されたままです。ライオンからいのしし、鳥、虫に至るこれら描かれた動物の持つ意味に関してはいかなる説明にも何かしらの疑問がついてまわります。

 周囲にほとんどまったく居住の痕跡がなく、描かれた動物のほとんどが捕食生物であることを考えると、石はある種の魔よけとしての役割を果たしてきたのかもしれません。あるいはある種のトーテムだったのかもしれません。遺跡が祭式目的に特化したものであるという仮説にも、共同住宅であったのではないかという異論が存在します。

 「太平洋岸北西部に見られる、特徴的な柱とトーテムポールで飾られたプランク・ハウス(en:Plank house)にどことなく似ている[42]」といえなくも無いと言えます。立てられた石柱が2、30年ごとに埋められ、それよりも小さい同心円上にふただび石柱を立て直すということが繰り返し行われている理由もわかっていません。埋葬が行われていたとも、いなかったとも言い切れません。遺構が丁寧に埋められた理由もわかっていません。さらなる証拠がそろうまでこの遺跡の文化的背景、意義を導き出すことは難しいといえます。

保存


ギョベクリ・テペの遺構
Zhengan - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 発見時の状態を保つためのためにミュージアムの建設、周囲の環境を含めた遺跡公園の建設が予定されていまする。

 2010年、GHFは数年にわたる遺跡保護プログラムを予定していると発表しました。GHFに加え、ドイツ考古学研究所、ドイツ研究振興協会、シャンルウルファ地方自治体政府、トルコ観光文化省(the Turkish Ministry of Tourism and Culture)、そして発表当初はクラウス・シュミットがパートナーとして名をつらねました。

 GHFのギョベクリ・テペ・プログラムには、遺跡の管理体制の準備、遺跡保存計画、遺跡の露出部分を覆うシェルターの建設、遺跡ガイドのトレーニングに、遺跡保護のトレーニング、世界遺産登録を見据えたトルコ当局に対する支援が含まれます。

 次節の通り、2018年には世界遺産リストに登録されました。

世界遺産

 世界遺産 ギョベクリ・テペ(トルコ)
 ギョベクリ・テペ、2011年
 英名 Göbekli Tepe
 仏名 Göbekli Tepe
 面積 126 ha (緩衝地帯 461 ha)
 登録区分 文化遺産
 登録基準 (1), (2), (4)
 登録年 2018年
 公式サイト 世界遺産センター(英語)
 地図
 ギョベクリ・テペの位置(トルコ内)ギョベクリ・テペ
 使用方法・表示

登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(
2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。


世界遺産17へつづく