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トルコの世界遺産9-2

チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡(2012年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコの世界遺産9-2です。

 つまり家の屋上が通路の代わりになっていました。屋根穴は換気口の役割も果たしていた。新鮮な空気を入れると共に暖炉やかまどの煙を排気する孔でもありました。それぞれの家は内面に漆喰を塗り、正方形の柱を使ったはしごと急な階段を設けていたという特徴があります。

 そしてそのような出入口は、たいてい暖炉や炉が設けられている部屋の南側の壁に沿って造られています。それぞれの家の主だった部屋は料理をしたり日常生活を営むために使われています。主だった部屋には壁に沿って座ったり、仕事をしたり、眠ったりするための基壇が設けられています。

 そういった基壇は壁の内側に設けられて、丁寧に漆喰が塗られ、表面を滑らかに仕上げています。実際建物の壁や床は白色の細かい粘土(漆喰)で何層にも塗りこめられ、120層にも及ぶ建物さえ発見されています。このような上塗りは同一の生活面から検出された建物にほぼ同じ回数の上塗りがされていることから、おそらく毎年のように繰り返されたと考えられています。

 一方、補助的に設けられた部屋は、食料、財産の貯蔵、保管に用いられたと推定され、主たる部屋からの天井の低い通路でつなげられています。それぞれの部屋は几帳面なくらいきれいな状態であって、考古学者たちは、建物の中にゴミを発見することができないくらいでした。チャタル・ヒュユクの住居の外側に著しい量の木灰や下水溝や調理に伴うゴミの山が発見されました。

 ゴミの山は埋め立てられて「広場」として使われ、天気のいいときには、日常的な活動が屋根の上やそのようなゴミや後述するような建物の瓦礫で埋め立てられた「広場」で行なわれていました。後の時代になると巨大な共同の炉が屋根の上に設けられるようになりました。時間が経過するに伴い、家屋は部分的に取り壊しが行なわれ、荒石と灰の上に建て替えが行なわれました。壊された家の瓦礫はマウンド状になっていき、その上も「広場」として使われました。それがチャタル・ヒュユクでは、18層にわたって行われたことが確認されています。

チャタル・ヒュユクの埋葬


チャタル・ヒュユク牛の壁画
Stipich Béla - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


チャタル・ヒュユク牛の壁画
Georges Jansoone (JoJan) - self-made; own photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


博物館の展示室に復元されたチャタル・ヒュユク第Ⅶ層で発見されたヒョウの壁画と乳房の模型。このヒョウの壁画は少なくとも7回の塗りなおしがされたことが判明している。
Stipich Béla - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 チャタル・ヒュユクの住民は、死者を村の内部で埋葬しました。遺体は床下に墓孔を設けて埋葬されました。特に暖炉の下、主たる部屋の基壇や「ベッド」の下から遺体が発見されています。遺体は、基壇の下60cmくらいの深さに、体を小さく折り曲げて(屈葬)、左側を下、頭を部屋の中央に向けて、かごやアシ類のござのようなものにくるまれて埋葬されました。

 いくつかの墓からは、関節がはずされた骨が発見されました。おそらく遺体は埋葬される前に長期間外気にさらされていたと思われますs。もしかしたら後述するようにハゲワシ等に死体をついばませていた可能性も否定できません。

 墓が荒らされると一体分の骨格から頭が取り外されている場合もみられます。頭蓋骨が集落のまったく別の場所で発見されることからそれらの遺体の頭蓋骨は、儀礼に用いられたと考えられています。頭蓋骨の中には、漆喰と黄土色の絵具で彩色され、人間の頭を「復元」しようとしているものもあります。。このような習慣は、シリアの新石器時代の遺跡や新石器時代のジェリコなどチャタル・ヒュユクの近隣の遺跡にもみられる特徴です。

 副葬品は、例外的であって、織物があるほかに、木製容器、籠、食べ物が共通してみられ、男性の墓の場合は、木製や骨製の柄の付いた剣、石製の棍棒のような武器、粘土製のスタンプ印章、銅の腕輪やS字状の骨製バックル、女性の場合は、化粧用の石製パレットや装飾品、ごくまれに黒曜石できた鏡がみられます。

 またタカラガイを目にはめ込んだ頭骨もみられます。身長は、男性170cmくらい、女性は、158cmくらいで、平均寿命は、男性34歳、女性30歳くらいであったと考えられます。生前にマラリアによる貧血症をわずらっていた人が多かったと思われ、関節炎や骨折を患っていた人がいたことも人骨から判明しています。

チャタル・ヒュユクの壁画とレリーフ

 生き生きとした壁画が居住区のいたるところ、部屋の内側や壁の外側で発見されています。チャタル・ヒュユクでは、前述したように壁に上塗りを繰り返したので、壁に彩色をしてある部屋の上塗り層の断面には塗色面が何層にもなっています。壁画はそのたびに上塗りされたため一時的にしか見られなかったことになります。反面そのために壁画が腐食せず良好に保存されて今日でも見ることができるのです。壁画は細かい毛のブラシを用いて塗料を塗って描かれたと考えられています。

 塗料の原料は、赭土、藍銅鉱、辰砂、孔雀石、方鉛鉱、マンガンなどアナトリアで入手できる鉱物から作られていました。地は、白かクリーム色で、壁画には赤や赤褐色が主に用いられましたが、黒、黄色、藍色、青、灰色が使われている例もあります。。多くの壁画は柱と柱の間におさまる大きさでしたが、例外的におおきな壁画も描かれていました。人や動物を描いたもの、幾何学文様、真っ赤に塗られたもの、人の手を並べて描いたものなど描かれた主題は多様でした。

 層の異なる二つの儀式が行なわれたと推察される部屋で、狩猟の様子を描いたと思われる壁画が発見されましたが、北側の壁に2mもの巨大な赤い雄牛を描き、その周りに何人かがヒョウの毛皮のふんどしをして踊っている姿を描いていました。描かれた人物は多くは男性であり、体を赤く塗った姿で表現されていました。この壁画より古い層のV層では、壁四面を使って、いのしし、鹿、熊、狼、オナガーと呼ばれる野生のロバ、ライオンやそのほかの動物を描いた壁画が発見されています。

 研究者たちは、狩猟の光景ではなくミケーネ文化に見られる儀式や現在の闘牛のような動物を使った祭りのような象徴的なものを描いたと推察しています。第III層では、部分的であるが犬のような動物を使って男性の狩人が牡鹿を矢で射ている絵が発見されています。VI層からは、アシと筵でできた納骨堂に織物がしかれ目のくぼんだ頭骨が置かれている絵が発見され、死者に関して何かを表す絵であるということ以外わかっていません。

 多くみられるのは狩猟をしている男性たちがペニスをいきり立たせている場面です。また現在では、絶滅しているバイソン類を赤く描いていることもあります。また、頭のない人間にワシやタカなどの猛禽類が飛びかかるように舞い降りてくる場面も描かれています。この壁画の猛禽類は、なぜか人間の足をもっているものがあり、儀式の際に鳥の姿に扮装した祭司の間に頭のない遺体が置かれている様子を描いていると考えられています。また、死体の処理の方法としてシロエリハゲワシなどに死体の肉をついばませていたことを表しているのかもしれません。

 壁には動物の頭、特に牡牛のものが多く、牡牛の頭骨や角を芯にして土で復元するように塗り固めているものがみられます。一方、牡牛や牡鹿の頭が取り付けられている例もあります。動物の頭像は、3個、5個、7個といった単位で低い基壇や壁にとりつけられたり、新しい時期の角がついたささげ物を置くのに使用した台と似た土柱に取り付けられることもありました。

 このような動物の頭像で、特に牡牛の角は男性の神格を表しているとかんがえられています。一方で、第Ⅶ層で発見されたようなヒョウの壁画や乳房の模型には、土偶ともに地母神や出産の女神を表していると考えられています。

 背景にチャタル・ヒュユクから140kmの位置にあるハッサン火山ないしHasan Dağ火山の二つの峰を背景に集落の様子を描いているものもあり、世界最古の地図ないしは風景画とみなせるかもしれません。

チャタル・ヒュユクの社会と経済

 チャタル・ヒュユクの人々は、社会的な階層分化がなされず、相対的に平等社会であったと思われる。はっきりと王や神官が使用したことを想起させる特徴をもった家屋が未だに発見できないからです。。最近の調査で判明したのは、ジェンダーに基づくわずかな社会的区別があるということだけです。

 男性も女性も食物を平等に分け合い、社会的な階層としては平等でした。チャタル・ヒュユクの上層においては、人々は農業を行い家畜を飼っていたことが明らかになっています。女性の土偶は、小麦や大麦を貯蔵する室の中で発見されています。小麦や大麦の他には、エンドウマメ、アーモンド、ピスタチオや果物などが栽培されていました。牛や羊の骨が見付かっているのは、動物の家畜化の始まった証拠として考えられています。

 しかしながら、チャタル・ヒュユクの人々にとっては、狩猟で得られる動物の肉はなお重要な食料であり続けました。土器を作り、黒曜石で石器を作ることが主要な「工業」でした。黒曜石でできた石器は、地中海産の貝やシリア産のフリントなどの物資と交易を行うために用いられたと考えられていま。

チャタル・ヒュユクの宗教及び母神像

 遺跡の上層からは、女性の土偶が発見されています。神殿と同定できる遺構はいまだに確認されていないものの墓や壁画や土偶は、チャタル・ヒュユクの人々が豊富な宗教的シンボリズムをもっていたことを示しています。そのようなものが集中的に発見される部屋は「祠堂」ないしは、公共の会議場であったと思われます。

 チャタル・ヒュユクでもっとも印象的なのは女性の彫像(土偶ないし石偶)です。最初に発掘調査を行ったメラートは、丹精をこめて丁寧につくられた彫像は女性をあらわすと考えられ、大理石や青みがかった石灰岩、褐色を帯びた石灰岩、片岩、方解石、玄武岩、アラバスターを刻んだり、粘土で象ってつくられていました。男性神もいたにもかかわらず、IV層よりも後になるとみられなくなり、女神像は男神像に数においては圧倒的に凌駕しています。


チャタル・ヒュユク母神像。二匹のライオン(ないし、猫科動物)が脇にいる
User:Roweromaniak - Archiwum "Roweromaniaka wielkopolskiego" No_B19-36, CC 表示-継承 2.5, リンクによる
Source:Wikimedia commons

 丁寧に作られた女神像は、メラートが「祠堂」であると考えた場所で発見されました。二匹のライオン(ないし、猫科動物)が脇にいる女神像一体が穀物蔵から発見されたとき、メラートは穀物の実りを保障したり、穀物の供給を守護する意味があるのだろうと推察しました。メラートが4度にわたる発掘調査で200ヶ所近い建物を調査した一方で、イアン・ホダーは、わずかひとつの建物に全調査期間を費やしました。ホダーは、2004年から2005年にかけてメラートが発見してきたおびただしい量の丁寧に作られた豊満に肥った母神像と同じものを発見しています。

 2005年に発見されたものは衝撃的で、ホダーは、チャタル・ヒュユクに関する公式サイトで、チャタル・ヒュユクに関する社会像を抜本的に変えなければならないかもしれないと前置きして、「母神像の豊満な胸には、両腕が置かれ、腹部が中央部をなして大きく張り出しています。

 ます神像のひとつを回転させて向きを変えると腕が非常に細く非常に細身で干からびたような人物の骨や骨格が描かれているのがみられる。あばら骨や脊椎骨がむき出しになっています。肩甲骨と骨盤もむき出しになっています。この母神像は、チャタル・ヒュユクの社会や表現力の性格について見方を一変させるようなユニークなものといえます。」と述べています。


世界遺産9-3へつづく