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石田三成の古里

石田三成(詳細1)

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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石田三成の古里 2016-9-7
@ 長浜市 石田町へ A 石田会館 B八幡神社と供養塔 C 観音寺 D 観音寺本堂
E 縁起と伽藍 F本坊と三成企画展 G三献の茶 H三成詳細1 I三成詳細2
J大谷吉継詳細 K島左近詳細 L三成エピソード1 M三成エピソード2 N三成エピソード3
O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

 ここではWikipediaから石田三成についてその詳細を紹介します。

 石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名であり、豊臣氏の家臣、豊臣政権の五奉行の一人でもあります。関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られています。

◆生涯

 石田三成は、永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生します。幼名は佐吉です。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされています。


石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)

 羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕えています(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍しています。


賤ヶ岳合戦屏風図  出典:長浜城歴史博物館所蔵


賤ヶ岳合戦屏風図  出典:長浜城歴史博物館所蔵

 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆきます。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげています(『一柳家記』)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めました。


賤ヶ岳合戦時、秀吉の本陣となった木之元地蔵院


豊臣政権下


石田三成の書状

 天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任されます。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされていますが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれています。

 天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれています(『常山紀談』。異説あり)。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えています。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋しています。

 また、秀吉から堺奉行に任じられます。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備します。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせますが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことであります。こうした秀吉の軍事機能を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であったとされています。

 九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事しました。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋しています。

 天正17年(1589年)、美濃国を検地します。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられます。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存しています。

 関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落しましたが、忍城では小田原開城後の七月初旬まで戦闘が続きました。なお三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかったとされています。

・取次
 取次は、豊臣秀吉政権が、他の大名に対する統合・統制をおこなう上で政権と大名の間に介在させた特定の人物および彼らによって担われた機構です。彼らはまた「申次」や「指南」とも呼ばれています。詳細
 

 文禄元年(1592年)からの文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務めます。

 文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしています。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招きました。

 文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地します。文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問します(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になります。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点であった近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられました。

 慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出します。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられています。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたといいます(日本二十六聖人)。

 慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍しました。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きました。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯であり、処分を受けた加藤清正、黒田長政、蜂須賀家政らは処分は秀吉が三成・長堯の意見を容れたものと考え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなっています。

 慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退しています。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられました。

 慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していました。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力しています。


◆秀吉死後

 秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぎました。しかし、関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭して行きます。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしています。また同月28日には五大老の一人・毛利輝元と浅野長政以外の三成を含む四奉行が起請文を交わしており、その中には五大老中で秀頼に逆心するものがあれば起請文に署名した5人が力を合わせるとの三成の加筆があり、秀吉の徒党を組むことを禁じる遺命に反した行為を行っています。

 家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んで行きます。

 慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣します。家康は、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦しました。

 閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死すると、その直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきます。

 しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていました。この後、七将と三成は伏見で睨みあう状況となりますが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しました。

 閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城しました。なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話がありますが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはありません。

 本稿出典:主にWikipeida

つづく