石田三成の古里 石田三成(詳細2) 青山貞一 池田こみち September 8 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
石田三成の古里 2016-9-7 |
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◆関ヶ原の戦い 以下はグーグルマップで見た現在の関ヶ原町です。 グーグルマップで見た現在の関ヶ原町 笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町) 慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図ろうとしましたが、宮本義己によると、これは俗説で提携の微証は見当らないされています。 決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の真田昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、七月晦日の段階でも、上杉氏との確かな交信ルートを持ち合わせていなかったことで、景勝と三成の具体的な謀議や提携は、なかったものと見ておきたいと分析しています。 |
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻) 関ケ原町歴史民族資料館 その後、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴きました。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとします。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対しましたが、三成との友誼などもあって承諾しています。 7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名(鍋島勝茂や前田茂勝ら)の東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させました。 7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込みました。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止されました。 7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布しました。 7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めます(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しません。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫します。 8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落しました。 8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布します。 8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなります。 そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まりました。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人でしたが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられましたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえました。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れました。 大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑 その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れました。さらに、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入りました。 そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れました。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。 一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死しました。 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見しました。 9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回されました。 9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれました。 10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました。享年41。 辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬らました。 以下の三枚の写真は、NHK真田丸の第37回、”信之”における石田三成斬首の場面です。 ◆石田三成の系譜 ・兄弟 石田弥次郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。 石田正澄 石田三成 女(福原長堯室) 女(熊谷直盛室) ・子女 3男3女もしくは2男5女がいたとされています。 長男: 石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うしています。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせています(以下、次女某の項参照)。 次男: 石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗ります。後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれました。 長女: 某 - 石田家臣の山田隼人正に嫁ぎます。山田隼人正の叔母は家康の側室・茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えました。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送りました。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めています。(ただし異説あり) 次女: 某 - 蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れます。のち若狭国に住み、小浜で没したと伝わります。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んでいます。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続きます(異説有)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となりました。 三女: 辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格します。子に第3代藩主・津軽信義がいます。 三男: 佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽 が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋、田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こりました。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させました。佐吉は父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗りました。 上記の3男3女は全て正室の皎月院の所生ですが、この他に側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっています。いずれも史実としての確認はできていません。 ◆石田三成の家臣 島清興(左近) 蒲生頼郷 前野忠康(舞兵庫) 蒲生郷舎 大音新介 渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人) 津田清幽(兄・正澄の家臣) 山田上野介 山田隼人正 小幡信世 磯野平三郎 大橋掃部 大山伯耆 森九兵衛 高野越中 牧野成里 宇多頼忠 宇多頼重 宇多頼次 蒲生将監 杉江勘兵衛 平塚久賀 大場土佐 蒲生大炊助 小倉作左衛門 蒲生大膳 田丸中務少輔 北川平左衛門 土田桃雲斎 八十島助左衛門 島信勝(左近清興の長男) 樫原彦右衛門 水野庄次郎 雑賀内膳 ◆評価 江戸時代には幕府の開祖である家康に敵対した者として、肯定的な評価はなされにくかったのですが、徳川光圀からは評価されています。 近代では司馬遼太郎が「三成は近代人の始まりの一人」として非常に高く評価しています。 三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行った他、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年(1907年)に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁しています。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いています。 肯定的評価の素材 後世に五人組となる制度の元を築きました。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度です。 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な吏僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられています。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作っています。 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたといいます。 領内の古橋村が飢饉に襲われた時、年貢を免租したばかりか前記の通り村人たちを救うために米百石を分け与えたと言われる。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があり、三成は手厚い保護を与えていたという。 『天元実記』には「三成は武道に名誉ある者であれば何をおいても召抱えた為、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」と記されています。 『桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされています。 恩顧を受けた人に対しては誠意をもって応える気概があり、『老人雑話』では「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったという。三成は主君の負託に対しては精神的にも物質的にも全てを捧げるようにという信念を持っていました。また島清興や蒲生郷舎など名臣に恵まれていたのは、三成が人を遇する道を知っていたためであるとされています。 忍城攻めの失敗を根拠に三成を戦下手だと評する文献があります。しかし、水攻めは秀吉が北条方に対するパフォーマンスとして命じたものであり、三成がこれに強く反対したのに対して再度厳命した書状が残されてい、ます。 ◆人物 三成は五奉行の中でも随一の実力者であり、毛利・上杉・島津などの大大名も秀吉への取り成しは常に三成を通じて行っていました。このため三成は次第に傲慢になっていったといいます。 太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残しました。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着しています。『翁草』は世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと伝えています。 三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現す発言が残っている。毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う) 島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」 木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」 ] 天正19年(1591年)、相馬に下着する2日前の佐藤大隅への手紙で、「67居もの鷹を居え歩き、架(とまり木)を結わせ、鷹が同士討ちをしようとして騒がせないよう隔壁を立てるように」と細かい指示を出すなど、鷹好きの一面を覗かせています。 ◆家紋 定紋は定かではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)、または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれています。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用があります。大一大万大吉紋は文字の配置や書体は不明ですが鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用しています。 「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされています。 大一大万大吉 石田三成画像にある図案 大一大万大吉 石田三成家貸し出しの足軽具足にある図案 大一大万大吉 関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館蔵)に描かれた石田三成の旗紋にある図案 本稿出典:主にWikipeida つづく |