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石田三成の古里

三成のエピソードB

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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石田三成の古里 2016-9-7
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O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

◆兵(つわもの)たちに嫌われがち!
  
周りは敵だらけ? 敵をつくってしまったエピソード

1.プレゼントを突き返す! 〜季節外れの桃〜

 ある年の10月、取次役を務める毛利輝元から「良い桃が採れました!」と季節外れの桃が秀吉宛に送られてきました。桃は春から夏にとれる果物ですので、この季節に桃がとれるのは非常に珍しいです。珍しい物好きの秀吉は喜ぶに違いないのですが、三成はこれを突き返してしまいます。

 三成の言い分は、、季節外れの桃を食べて、秀吉公になにかあれば一大事なのでお返しします。
 言われた方はあまり良い気持ちはしませんね(笑)



.あなたの刀をください。 〜ほぼ強引に手に入れる〜
 
 三成は、毛利家の家臣である児玉三郎右衛門の持っている貞宗の脇差が欲しくなり、毛利輝元にとりなしを頼みました。

 この強引な申し入れに対して、輝元は三郎右衛門「石治少(石田治部少輔)が所望しているから差し出すように」という趣旨の手紙を書き、さらに追書の中でこう付け加えたそうです。

 「彼に、当時、肝心の人にて、中々申すに及ばず、大方の心得にて候」

<ざっくっ訳>

 「三成が豊臣政権のキーマンというのは言わなくても大体皆知っているよね」と要職の三成の機嫌を損なわないように気を配っている様子がわかります。

 毛利家は三成に対して、あまり良い感情は持っていなかったかもしれません(笑) 



3.あなたに脱帽はしません。 〜相手は天敵・徳川家康〜
 
 ある日、三成は浅野長政と共に大坂城で頭巾をかぶったまま日に当たり暖をとっていると、徳川家康が登城してきました。
 
 長政は失礼のないように頭巾をとるように促しますが、三成は完全に無視!長政は激怒して頭巾を奪い取り、火中に投じたと言われています。

 また、三成が家康とともに大仏殿の普請場にいた時、三成がたまたま手にしていた杖を落としてしまいまいた。これを拾って三成に手渡したのが家康だったのですが、三成は礼を言わず杖を受け取ったそうです。

 どちらも江戸時代に残された逸話なので、真意のほどは不明ですが、こういった三成も個人的に嫌いじゃないです。 



4.戦下手のレッテル 〜忍城水攻の失敗 〜

 1590年の「小田原攻め」の時、三成は大谷吉継や佐竹義宜などとともに別動隊を組み、館林城(群馬県館林市)を効力しました。
 
 その後に攻めた忍城は「関東七名城」に数えられる堅城であったため、秀吉の「備中高松城の水攻め」に倣い全長4km以上に及ぶ堤防を築いて、水攻めを決行します。

 ところが、増水による堤防決壊などもあり、北条家の本拠地である小田原城が落城した後も忍城は持ちこたえ、三成は戦下手のレッテルを張られてしまい、諸将から侮られる原因となって今いました。

 しかし、水攻めは秀吉がパフォーマンスとして三成に命じたものであり、三成自身は強く反対しています。その反対があっても、秀吉は水攻めを厳命!結果は、三成の予想通り失敗でした。

 この失敗は秀吉の黒歴史となってもおかしくないと思うのですが、残されたイメージは「三成は戦下手」というものです。

 これはつまり、主君である秀吉が犯したミスを、忠臣の三成が背負ったともいえるものではないでしょうか! ちょっと、三成びいきすぎますかね(笑)



5.三成は絶対許さない! 〜武断派の三成襲撃事件〜

 三成は、槍働きで武功を上げてきた「武断派」と呼ばれる武将たちと、生涯を通じてすこぶる相性が悪かったです。

 武断派と呼ばれる武将には、加藤清正、福島正紀、黒田長政、星川忠興、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明などがいて、この7人は「七将」とも称されていました。

 特に加藤清正との確執は、根深いものがありました。

 「朝鮮出兵」の際に監督・報告役だった三成は、清正の水を秀吉に報告し、清正は秀吉から謹慎を命じら れていました。

 これを清正は相当恨んでいたようで、「彼の背の小さき、わんさん(告げ口)者か!」 と罵ったと言われています。増田長盛は清正に、三成との和解を持ちかけましたが、清正は断固拒否したそうです。
 
 こうして三成は、清正をはじめとした武断派七将と対立し、後ろ盾になってい前田利家がなくなった夜に、七将から襲撃を受けることになってしまったのです。

 首謀者は加藤井清正と黒田長政、長政も、清正と同様に、三成が秀吉に不利な報告をしたと恨みをもっていたそうです。

 この襲撃事件を事前に察知した三成は、佐竹義宣の機転で大阪屋敷を抜け出し、伏見城内に逃れました。

 その後、徳川家康から和議を持ち出され、五奉行からの引退を承諾し、佐和山城へ謹慎することなってしまいました。



6.自分、不器用ですから 〜三成のそんな性格〜

 「北川遺書記」には三成の性格を表す一文が残されています。
 
 そこには、「三成はそのところ、志を必ず貫徹せざれば、と止まざるの上にして、容易に人は動かず、自ら信ずることを。。。す」と記されています。

 <ざっくり訳>
 「三成は、自分の意見を必ず通したい人で、通せない時は人の話を聞かないで、自分の信じることだけを、、、成す」、さらに、自分の信じる物に反するものは、あくまで排撃するという激しい一面があったと言います。
 
 おそらく三成が言っていることは正しいのでしょうが、周囲の感情は二の次にしてしまったため、敵が多かったのでしょうね。何だか不器用で、損な性格ですね。



つづく