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石田三成の古里

三成のエピソードC

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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石田三成の古里 2016-9-7
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O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

◆味方だったら頼もしい!  
  五奉行筆頭! 頼りになるエピソードをご紹介!


1.秀吉をパーフェスト接待! 〜三献の茶〜

 三成は、現在の学校の役割を果たしていたお寺に預けられました。

 そこで、長浜城主となったばかりの羽柴秀吉と、15歳になった三成が運命的な出会いを下といいます。その時の出会いのエピソードが有名な「三献の茶」です。

<さっくり訳>
 「鷹狩りに出て喉が渇いた秀吉は、ある寺に入って茶を所望した。
  その寺の童子を務めていた三成は、秀吉に三杯のお茶を出した。
  ・1杯目 → 大きな茶碗に7〜8割入った温かいお茶
  ・2杯目 → 中くらいの茶碗に、半分に満たない少し熱めのお茶
  ・3杯目 → 小さなお茶碗に、少なめの熱いお茶
  秀吉はその機転の働き方に感じ入り、近習に取り立てた」

 この三成が預けられたお寺は諸説ありますが、観音寺(米原市大原)だったと伝わります。逸話は江戸時代につくられたものと言われますが、観音寺には秀吉が扶持(建設費)を与えて、実際に茶亭を創らせているので、あながち作り話とも言えないところに、この逸話のおもしろさがあります。



2.秀吉が才能を大絶賛
  〜あいつは俺みたいに天才だ〜

 三成は、織田信長の「中国攻め」の大将であった秀吉に従って、中国地方を転戦したといわれています。

 このときの役職は「伝奏」(取次役)だったとか。三成は当初から秀吉の意向を直ぐに察知して機敏に行動に移し、秀吉からの信頼を得ました。

 まさに、出来る男だった三成のことを秀吉はこう評しています。

 「才気の我に異ならないものは、三成のみである!」

 つまり、「天才の俺と意見が合うのは三成だけである!」というわけです。秀吉が三成の才能を認め、愛していたことがわかる言葉です。あと、秀吉の自信も垣間見えますね。



3.以外に武闘派!? 
  〜賤ケ岳の一番槍〜

 三成は「官僚」「文治派」などと言われ、非力で戦下手のイメージがありますが、さにあらず!「本能寺の変」で信長が没すると、織田家の筆頭家老であった柴田勝家と秀吉の間で戦いが起きます。それが「賤ヶ岳の戦い」です。

 三成は、まず、柴田軍の動静を探るための偵察部隊を担当しました。そして、戦いが始まると、三成は、槍を持って敵陣に突撃!「先懸衆」の一人として一番槍の功名を挙げているのです。これは「賤ヶ岳の七本槍」に次ぐ、功績だったと言われています。

 この戦いの時は、三成は24歳。若い頃は意外に武闘派だったのかも知れません。



4.五奉行に就任 〜豊臣政権の内閣官房長官〜

 1585年に、秀吉は「関白」に就任し、「豊臣」姓を名乗り始めました。それに伴って、三成は、「従五位下・治部少輔」に叙任され、後に豊臣政権の「五奉行」に任命されました。

 五奉行は他に、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長束正家。業務内容が分担されていたといいます。
業務内容は以下の通り  

 ●司   法  浅野長政
 ●土   木  増田長盛
 ●行   政  石田三成
 ●朝廷・寺社 前田玄以
 ●財   政  長束正家

 三成は五人の中でも一番の実力者として、五奉行の筆頭にのし上がっていきます。その頃の三成の勢いを物語る証言が残されています。

 島津義弘「江州佐和山の城主、石田治部少輔、太閤の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」 木倉応其「治少(治部少輔)、御奉行のその随一の顔にて候つる。少しも背け候えば、たちまち身の障りをなす仁にて候。」

 豊臣秀吉「石田は、諫めについては、吾が気色を取らず、諸事ある姿を好みし者なり。」

<ざっくり訳>
 「石田はオレを諫めようとするとき、機嫌を取ろうとせず、ありのまま、堂々と諫めてくるやつだ。」
 
 以上のことから、三成は、豊臣政権の官房長官的なポジションで政治を取り仕切っていたようです!



5.得意技は「検地」「取次」「兵站」!
  〜基本的に裏方です〜

 三成が大きく係わった豊臣政権の大プロジェクトがあります。それが「太閤検地」です。

■検地
  太閤検地とは、各大名が独自に行っていた「検地」を豊臣政権が定めた統一の「竿」と「枡」で行った全国規模の検地です。これによって税を課すための基準となる「石高」が算出され、複雑な土地の権利関係が整理され、「1つの土地には1人の耕作者」と定められました。

 三成は全国の様々な場所の検地奉行を担当しています。担当した地区は;美濃、越後、島津領(薩摩、大隅、日向)、佐竹領(常陸、磐城、下野)。各地まで赴いて、三成自身が監督して行われたそうです。

■取次
 また、三成は、豊臣政権の取次役(連絡窓口、行政の指導)としても活躍しています。担当していた代表的な大名は;

 ・上杉景勝 家老の直江兼続を通して、豊臣家に臣従を誓う際に、秀吉への斡旋を行う。
 ・島津義久 「九州征伐」で降伏後、佳久の上洛などの斡旋を行う。
 ・佐竹義宣 義宣の秀吉への臣従や謁見を斡旋する。
 ・毛利輝元 秀吉との間を取り持つ

■兵站
 総勢25万を擁した「九州征伐」や異国への出兵である「朝鮮出兵」では、兵糧や武器などの補給を担当する奉行に任命されました。特に「九州征伐」では完璧な補給を行い、「前代にもその例がなく、末代にもあり得ないことだろう。」と絶賛されたそうです。

 「本能寺の変」(1582年)からわずか8年、(「小田原征伐」1590年)で秀吉が天下統一を成し遂げられたのは、三成を始めとする兵站奉行による後方支援がとても優秀だったからでしょう。



6.関ヶ原での一大決戦!〜実質上の西軍総大将〜

 秀吉が亡くなり、後ろ盾だった前田利家も亡くなると、三成と対立した7人の武将に襲撃され、佐和山城へと引退していました。すると、増長してくるのは、天敵の徳川家康!以前から家康は、豊臣家に対する誓紙を反故にして、無断で縁組みを結び、勝手に領地を与え、徳川一派を組もうとしていました。

 そこで三成は、家康の「会津征伐」に呼応して打倒家康の兵を挙げました。しかし、家康の石高が250万石に対して、三成の石高は家康のわずか12分の1にも満たない、19万4千石。 三成は「五大老」の毛利輝元と宇喜多秀家を見方に引き入れ、・・・・・ (以降読み取り不可)


つづく