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石田三成の古里

島左近(詳細)

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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石田三成の古里 2016-9-7
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O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

◆島左近
(島 清興)

 島 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、筒井氏、石田三成の家臣です。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られています。
 
 三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材でした(『古今武家盛衰記』)。


出典:「太平記英雄伝廿五:品之左近朝行(島左近)」




島左近が用いたという 「丸に三つ柏」紋


生涯

・出自
 島氏]は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたといいます。島氏の出自は明らかでありませんが、本姓は藤原姓であるといいます。


・石田三成の時代
 石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断りますが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられました。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇でした(『常山紀談』)。

 もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説も有力ですが、それでも破格の待遇であったことには違いありません。屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられました。左近が石田三成に仕官したのは、天正19年(1591年)正月22日以降、天正20年(1592年)4月以前と考えられてます。その後、左近は三成に従って朝鮮出兵に従軍したと伝わっています。


・関ヶ原の戦い
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの家康の美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利しました。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わっています。


島左近陣跡(関ヶ原)

 関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立っていました。その最期については、黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去しています。

 正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣。正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死しました。

 最期の折の勇猛さ・狂気じみた左近の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となっています。特に左近を討ち取った黒田長政軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの俗説が伝わるほどです(『常山紀談』)。

 江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老いた武将達がその服装について若侍相手に語り合っていますが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしています。


異説・伝説

・家康暗殺

 慶長5年(1600年)、徳川家康を危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけました。これに対し三成もすでに家康暗殺を近江水口岡山城の長束正家と計画しており、正家に会津征伐で東下する家康をもてなさせ、水口城内で家康を斬るという作戦でした。家康はこの企てを知っており、その夜の内に水口を出立したため、計画は失敗に終わりました(『徳川実記』)。

・関ヶ原の戦い
 関ヶ原開戦の直前に島津豊久に対して、「若い頃は武田信玄に仕官し山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と語ったといいます(『天元実記』)。

・墓所とされる墓(対馬の島山島)
 関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632年)に没したとする説もあります(石田軍記、古今武家衰退記、関ヶ原御合戦当日記、新対馬島誌、関ヶ原町史等)。左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていません。さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだといいます。


墓所とされる墓(対馬の島山島)

 京都市の立本寺には島清興の墓があり、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされています。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されていることがその根拠となっています。

 静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住しています。23代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催したといいます。また居住地を「おさか」と呼んだといわれており、これは大坂のことと推察されています。隆慶一郎はこの地を訪問して島茂雄から話を聞き、小説「影武者徳川家康」の題材としていました。

 東広島市西条最古の酒造業者、白牡丹は自社の創業に関し、古書において「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ヶ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とある旨を紹介しており、現在も同社の社長職は島家が引き継いでいます。
 
 熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残っています。

・遺品
 久能山東照宮博物館に左近が使用したと伝わる兜が収蔵されています。


つづく