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石田三成の古里

 三成と秀吉・三献の茶

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
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石田三成の古里 2016-9-7
@ 長浜市 石田町へ A 石田会館 B八幡神社と供養塔 C 観音寺 D 観音寺本堂
E 縁起と伽藍 F本坊と三成企画展 G三献の茶 H三成詳細1 I三成詳細2
J大谷吉継詳細 K島左近詳細 L三成エピソード1 M三成エピソード2 N三成エピソード3
O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

 観音寺の惣門近くには、<三献の茶>に関連した石田三成の水くみの井戸があります。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7


出典:グーグルストリートビュー  Nasu Takeshi

 
撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7

        石田三成 水汲みの井戸

        三成が秀吉に仕えた頃の武将感謝記に、「石田三成はある寺の童子也。
       秀吉一日放鷹にでてのどか沸く。その寺に至りで誰かある茶を点じてくれと
       所望せり。

        石田、大なる茶碗に七、八分ぬるくたてて持ちまいる。

        秀吉之を飲み舌を鳴らし、気味よし今一服あれば、またたてて之を捧ぐ。

        前よりは少し厚くして茶碗半ばに足らず。秀吉之を飲み、また誠に一服とある
       とき、石田比の度は小茶碗に少し許りなるほど熱く立てて出る。秀吉之を飲む。

        その気はたらきを感じ寺持に乞い、近侍に使う才あり。次第に取立て奉行職を
       授けられぬ」と記されている。絵本太閤記では、その寺を大原の観音寺としている。


        石田三成と豊臣秀吉の運命的な出会いは、先の観音寺における<三献権の茶>
       につきますが、以下は近江史蹟に残る三成についての記録です。

        以下では関ヶ原の戦いと敗れた後についての詳細な記述もあります。 


        そして最後には、三成が歴史的に果たした大きな役割を多くの人に知って
       ほしいと思う、としてとかく悪いイメージ、悪役として登場する石田三成の人となり
       についても、水戸光圀の言葉をもとに真実の姿を紹介しています。

◆明治43年10月3日発行 近江史蹟  抜 粋

                             出典:観音寺山を愛する会

 佐吉幼ニシテ敏慧、邑ノ觀音寺ニ學フ、トキニ羽柴秀吉長濱城ニ在リ、一日鷹ヲ郊外ニ放ツ會、觀音寺ニ入リテ憇ヒ、渇シテ茶ヲ求ム、佐吉出て、茶ヲ獻ス、初メ巨碗ニ温茶六七分ヲ進メ、次ニ半盞少し緩キヲ進ム、秀吉更ニ一碗ヲ求ム、佐吉乃チ濃茶ヲ小碗ニ汲テ進ム、秀吉其才氣ニ感シ、寺僧ニ請フテ携ヘ帰リ、左右ニ侍セシム、長スルニ及ヒ、才氣縦横、濶達敏捷ナリシヲ以テ深ク秀吉ノ意ニ協ヒ、其蘢幸ヲ受ク

 後に中国地方征伐、山崎合戦、岐阜攻め、伊勢征伐、北国攻め等、常に帷幄に参じて功労多大で天正13年(1585年)7月従五位下に敍し治部少輔に任ず。この時に三成と改名し、佐和山城に十八万六千石を領す。

 18年小田原の役、軍に従って武蔵に入り館林城及び忍城を攻めて共にこれを下す。文祿元年(1592年)6月朝鮮に赴きて監軍となり、諸營を巡視する。

 慶長3年(1598年)秀吉病死。徳川家康の声望、日に隆して屡々秀吉の奮法に違ふあり、これに三成慨然、豊臣氏のために家康の策謀を除かんことをはかる。

 慶長5年(1600年)上杉景勝と作戦をねり、先づ景勝をして事を挙げ、家康が出陣するのを見てこれと戦うその隙に乗じて、三成は西軍を率いて東に下り、挟撃以て家康を滅ぼさんとする関ヶ原の陣是だった。

 西軍の首将で命令統一するも、小早川秀秋の内叛で東軍に寝返りしたため大敗をきした。

 内叛がなかったら三成はこの戦いに勝利したに違いない、後の時代も大きく変わったことと思う。

 三成は再起を考え身をもって免れ、伊吹山に隠れること70餘日、尚、高野山に至り其身を潜む。その後再挙を謀らとして微行、湖北へともどる途中、田中吉政の手に捕らわれ慶長5年((1600年)10月に京都四条河原町にて斬罪される。行年41歳であった。

 しかし、今日400餘年たったが、三成は自分の主人公に忠実で、裏切り行為をするようなことはしない人物で、今でも尊敬されている。それが証拠に部下を大事にしたからだ。

 士を愛した自分の禄高の中から、島勝猛に一万五千石、蒲生郷舎にも同様一万五千石を与えて用いた話は有名。

 この二名も主君三成に従って関ヶ原の合戦でその屍を横に並べて立派に戦死、世に伝えた美談は三成の心配りのすぐれた人格が、敗れても現れている。小早川の寝返りが今でも悔やまれる。

 徳川によって三成が指導した、秀吉の全国統治の基礎となった太閤検地は、後に徳川幕府を支える重要な制度となっているのにもかかわらず、家康に対抗人物として、江戸時代に意図的に人物像がゆがめられてしまった。

 三成が歴史的に果たした大きな役割を多くの人に知ってほしいと思う。

 敗戦(慶長5年9月15日)後、笹尾山の本陣から伊吹山東麓相川山の谷あいを通り、粗川の流れに沿って春日谷へ逃れた。翌16日槍ヶ先山北麓長者西方に潜み、日坂、諸家を経て新穂峠で伊吹山脈を越えて姉川源流の甲津原へ脱出、17日つづら折りの山路を下り曲谷に着く。

 白山神社の裏道から小字ムカイラまできて炭小屋に隠れ、炭焼きの着物に着替えた。だから今でもこの付近を「石田ヶ洞」と呼んでいる。

 18日吉槻から七曲り峠を越え草野川支流である松谷川の上流、指南谷の洞穴に隠れ、19日草野川西岸に渡り、板杭川谷から谷口の村落に入った。

 庄屋賢代は、湖北十九万四千石領主、石田三成の善政に報いるのは今と手厚くもてなし、寝間の床を外して三成をかくまった。別れの際三成は感謝の涙で瞳を潤ましながら「親身も及ばぬ深き心入れ」と感ずるに余りあり、大阪城に戻り秀頼公を奉じて家康打倒のあかつきには必ず厚き恩賞を取らせる当座の礼として、これなる石田家重氏の短刀を授け、鳩入りの家紋と石田の姓を与える故子々孫々に伝えられたい・・・・庄屋の家では、この時以来石田姓を名乗り「鳩入りの家紋」を用いた。

 三成が隠れた寝室は恐れ多いと、出産や葬儀などには使わず別室で行ったという。庄屋屋敷は明治30年ごろ洪水で流出し、末孫石田賢氏は今、別の地に住んでいる。

 元屋敷跡には「石田神社」という小さな祠が建てられている。

 谷口から北方への三成の足跡は二つに分かれている。京都で刑死したのは、三成の影武者という説もある。

 通説 谷口⇒大谷山⇒高野⇒古橋法華寺(三珠院)⇒三頭山の岩屋

 与次郎太夫に助けられたが、ついに田中吉政に捕らわれ四条河原町で斬殺される。享年41歳

 異説 谷口⇒上山田⇒馬上⇒木之本⇒北国街道⇒秋田

 秋田城主佐竹義宣の保護を受けるも寛永10年(1633年)1月死去。享年71歳

 徳川幕府の厳しい詮議を恐れて、石田町には石田姓が一人もなく石田一族の墓はすべて砕かれ埋められていたが昭和48年6月八幡神社東側に掘り起こした墓を集めて、「石田三成公及家臣供養塔」が建立された。

 「散り残る紅葉は殊にいとほしき秋の名残りはこればかりぞ」と石田三成。

 秀吉の死後、豊臣から徳川へと諸大名はなびいたが、三成は秀吉の恩義を最後まで忘れなかった。

 大阪城の遺児秀頼を守って、関ヶ原で徳川家康と乾坤一擲の大戦を交えて、小早川秀秋の裏切りによって敗れた。

 後年、水戸光圀は、「三成は憎からざるものなり人各々その主のためにすという義にて心を立て事を行うもの仇なりとて悪むべからず」と説いて豊臣家の忠臣であることを暗にほのめかしている。

 下は、滋賀県の長浜駅前にある豊臣秀吉と石田三成の<出逢いの像>です。 石田三成15歳、佐吉と言われていたときのことです。


長浜駅前にある豊臣秀吉と石田三成の出逢いの像 
出典:三成会議 石田三成に逢える近江路


つづく