石田三成の古里 大谷吉継(詳細) 青山貞一 池田こみち September 8 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
石田三成の古里 2016-9-7 |
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◆大谷吉継 大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、豊臣秀吉の家臣であり越前敦賀城主でもあります。 号は白頭で、官途は刑部少輔、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られています。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し、ついに敗戦すると家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して果てました。 出典:『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』落合芳幾画 ◆生涯 ・出自 永禄8年(1565年)を生年とする説が有力です。母が高台院の侍女であったことを根拠に秀吉の隠し子とする説もありますが、吉継の名が秀吉を継ぐすなわち吉継から出た俗説ともされています。兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。 ・秀吉に仕える(織田時代) 天正始め頃に秀吉の小姓となりました。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見えます。 天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣ましたが、このときに吉継も従軍しています。 その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねています。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かではありません 天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めました。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍しています。その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死します。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆきます。 ・秀吉時代の活躍 秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍しました。 そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てています。 天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されています。また7月以前に、キリスト教に改宗していたとされ、宣教師ガスパール・コエリョが秀吉を訪問した時には、安威了佐と共にコエリョへ果物と千柿を持参しています。同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任しましたが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任されます。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになります。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行しています。 天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行石田三成の下、功績を立て、同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当しました。天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となります。笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めました。 翌天正18年(1590年)末、小田原の陣・奥羽出兵より帰還後に南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6944石を加増され、このころにいわゆる『敦賀5万石』を領することとなります(なお、慶長3年の太閤検地により3000石近い加増をうけるが、その際今立郡の領地はなくなっています)。吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されています。敦賀の地は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能しました。 文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族の道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供しています。この他、高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、慶長2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいます。伏見城下においては現在の桃山町日向より北東に屋敷を構えました。この間、文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っています。 この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋の刀禰家へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残っており、地場産業の育成を図ったことが見て取れます。水軍も編成され、後の関ヶ原の戦いで前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいます。 西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっています。寺社への寄進も積極的に行い、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進しています。「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていました。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当しました。この時、蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されています。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧しました。 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てています。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めました。明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たしています。 その後、再度朝鮮へ渡海しましたが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国しました。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は大都督(他に石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛)の官位を受けることになっていました。 文禄2年の朝鮮からの帰還に際し、9月吉日付けでに大宰府天満宮に一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、この鏡は現存しています。一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」という4人の女性名が列挙されています。この東は吉継の母親の東殿です。 慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問、吉継は豪勢な饗宴で出迎えました。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜っています。 ・関ヶ原 文禄3年(1594年)から慶長2年(1597年)ごろまで、豊臣政権の中枢から外れていたが、それ以降は政権に復帰しました。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近し、慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護しています。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵しています。また宇喜多家中の紛争の調停をしています。 慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し上方の兵を率い上杉討伐軍を起こします。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、三千の兵を率いて討伐軍に参加すべく領国を立ち、途中で三成の居城である佐和山城へと立ち寄ります。 吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしましたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられます。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しますが、三成の固い決意を知り熱意にうたれます。 関ヶ原の戦いの大谷吉継陣跡 吉継は敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与しました。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後、北国口の兵3万100の大将とされています。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始します。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母東殿局は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席しています。 こうして西軍首脳のひとりとなった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行いました。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功し、さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦いました。 9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出し、9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至っています。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣します。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていました。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦しました。 正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃しますが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したいいます。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺えます。 しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けました。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害しました。 享年42歳2。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となりました。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、吉継の実母である東殿の最も信頼をおく北政所の甥である秀秋に討たれることで、北政所への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれています。 自害した吉継の首は側近である湯浅五助(隆貞)の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはありませんでした。 以下の三枚の写真は、NHK真田丸の第37回、”信之”における大谷吉継自害の場面です。 異説では切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われています。現地には首塚も建てられています。吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしています。居城敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行っています。 辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっています。 墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、岐阜県関ヶ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があり、また前述のように祐玄が首を持ちかえったとされる伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っています。 関ヶ原にある吉継の墓(左隣は湯浅五助の墓) 大谷吉継の首塚(滋賀県米原市) ・石田三成との関係 豊臣政権の五奉行で関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在しています。吉継は三成と「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かったという。その理由として吉継と三成がほぼ同年齢であり、出身も同じ近江(吉継に関しては諸説があります。 また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、九州征伐の際には吉継と三成に命じて「兵三十万、馬二万疋、一年の長期滞陣」に必要な物資補給と輸送を担当する兵站奉行として活躍しています。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げています。天正18年(1590年)の小田原征伐でも三成と兵站奉行を、文禄の役でも三成と「船奉行」を務めています。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付されています。 天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めており(『宇野主水日記』)、このように2人一緒に行動を共にしたため友情を培ったのではないかといわれています。 吉継と三成の交流については、同時代史料では神屋宗湛の日記にのみ残されています。天正15年6月、九州征伐を終え、筑前国筥崎に到着した秀吉の機嫌を損ねてしまった吉継は、筥崎にほど近い香椎村で蟄居していました。このとき秀吉主催の茶会があり、石田三成がひそかに宗湛へ茶器を吉継に披露するように頼んでいます。吉継はひそかに船で香椎より姪浜に渡り、興徳寺に宿を借りて茶器を鑑賞したといいます。 吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされていますが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しません。目を病んでいたのは確かで病が重篤化したと推定される文禄三年十月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べています。 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶をひと口ずつ飲んで次の者へ回してゆきました。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけでしたが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされています)、気軽に話しかけてきました。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。 関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したといいます。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかります。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告しています。 ・主な家臣 湯浅隆貞(五助) - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 湯浅十郎左衛門 - 隆貞の子。後高力家に仕官した。 三浦喜太夫 - 隆貞の従者。吉継の首を地中に埋めて隠した。 諸角余市 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 土屋守四郎 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 笠井慶秀 - 武田旧臣・笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召 し出され仕官した。 三位融盛 岩田五助 島信勝 -島清興の息子、軍奉行。名は清正とも。関ヶ原の戦いで藤堂隊と戦い討死。 蜂屋将監 - 敦賀城留守居役。関ヶ原敗戦後、東軍に城を引き渡した。後福島正則に仕えた。 蜂屋右京進 - 文禄5年(1596年)、秋田実季に対し「御橋板」受取状を発した。 高橋二郎兵衛 - 同上。 蜂屋市兵衛 - 老臣と目される。 下河原惣左衛門 - 老臣と目される。 佐久間与左衛門 岩間伝五郎 橋元久八 岡部小衛門 富永主膳 中田六兵衛 引塩伝右衛門 - 文禄3年(1594年)5月明の講和使節沈惟敬が来日した際「唐便萬事用所等承り、相調 可申添奉行」を務めた。 小岩内膳 - 同上。 大滝源右衛門 本多政重 このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる 本稿出典:主にWikipeida つづく |