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石田三成の古里

観音寺の縁起と伽藍

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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石田三成の古里 2016-9-7
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 ここで観音寺、正式には伊富貴山観音護国寺の縁起を以下に紹介します。

 本堂の紹介にあるように寺の創建は、仁寿年間(八五一年から八五三年)、現在の場所に移ったのは、貞和三年(一三四七年)に伊吹山中から現在の地に移ったとされています。非常に古い寺です。

 下は寺の縁起が書かれたパンフです。


出典:天台宗、伊富貴山 観音寺

 下は縁起の詳細です。

◆観音寺(伊富貴山 観音護国寺の概要)

 観音寺は、伊富貴山観音護国寺といい、大原観音寺とも称されている天台宗寺院です。

 そのはじめは伊吹山中にあって、弥高寺、太平寺、長尾寺の三カ寺と共に伊吹山四大護国寺と呼ばれていました。

 伊吹山護国寺は、仁寿年間(八五一年から八五三年)に三修沙門によって開基され、元慶二年(八七八年)定額寺に列せられた名刹です。

 観音寺伝によりますと、貞和三年(一三四七年)に伊吹山中から現在の地に移ったとされていますが、当寺に伝わる古文書などによりますと、それよりも八十数年前、鎌倉中期の正元年中(一二五元年〜一二六〇年)に今の地に移転し、弘長年問から弘安年間に至る約二十年間にほぼ寺観と什物を整えたとされています。

 鎌倉から室町にかけては、時の領主であった地頭佐々木大原氏によって手厚い庇護を受け、戦国期には、浅井完敗、久政、長政からも多くの寺領を安堵されています。

 羽柴秀吉は寺領を安堵するとともに、長浜城主時代にたびたび立ち寄り、大正四年には当寺に茶屋を申しつけています。
 
 その頃小僧をしていた石田三成が鷹狩りの際に訪れた秀吉に、一杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、三杯目は小さい茶碗に熱いお茶を差し出し、その才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が伝えられています。そのお茶の水をくんだとされる古井戸も残っています。

 江戸時代になっても諸役を免ぜられ、観音寺村という寺院名が村名となり、彦根藩(井伊氏)の所領として幕末に至ります。

 境内には、本堂のほか、薬師堂、鐘楼、惣蔵、惣門などがあり、その内の本堂、鐘楼、惣門が国の重要文化財に指定されています。

 寺坊は、盛時には二十三坊あったとされていますが、現在、本坊、玉泉院の二坊を残すのみとなり、参道の両側に広がる階段状の台地には、わずかにその面影をみることができます。

出典:天台宗、伊富貴山 観音寺


廊下と薬師堂

 写真の位置から見ると、全体の伽藍配置が背後の森に溶け込むようになされ、非常に厳かでありかつ、深山幽谷さを体感できます。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7

 本堂の右側には渡り廊下を渡ると薬師堂があります。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7

この廊下は重要文化財ではありませんが、非常に素晴らしい意匠が施されています。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7

 下は本堂から廊下を通っていったところにある薬師堂です。左側に廊下が見えます。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7

 この薬師堂は重要文化財ではありませんが、すばらしいお堂です。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7


鐘楼

 さらに観音寺の鐘楼です。これは国の重要文化財です。


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7


撮影:青山貞一、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7


水盤舎

 下は観音寺の水盤舎です。


撮影:池田こみち、Nikon Coolpix S9900 2016-9-7


つづく