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前半 後半 全体 ■2009年3月12日 ポーランド東の3大絶滅収容所、ソビボルを知る 私たちは中世の町並みがそのままのこる世界遺産都市、ザモシチ(Zamoc)を後に、ソビボル近くまで行けるだけ行くことにした。 下の地図では、ベルゼックからソビボルに行く(北上する)道が見えないが、ベルゼック→国道17号線でTomaszow Lubまで北上し、そこから地方道850線→国道74号線→ウクライナとの国境に沿って走る地方道816号線を使い1時間半ちょっとでソビボル近くまで行く。 しかし、ソビボルも、ベルゼック同様、ナチス・ドイツが敗戦前に徹底的な証拠隠滅作戦で施設そのものを破壊したため、現在は収容施設、ガス室、焼却炉などは保存、展示されているわけではなく、現在はウクライナと接する森の中の雪原の一部であった。 東ポーランドにおける4大強制収容所の位置 出典:赤丸は青山、元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html 下はソビボル絶滅収容所の位置である。ウクライナとの国境沿いにあり、私たちが直前に訪問したザモシチの北90km、前日訪問したプジェミシェルの北、約180kmにある。またルブリンやマイダネクの東約80kmの位置にある。 ポーランドにおけるソビボル絶滅収容所の位置 以下は調査前及び調査後に調べたソビボルに関する概要を整理したものである。 ●東ポーランド3大絶滅収容所とソビボル絶滅工場 ソビボル絶滅収容所は、第2次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランド東部ルブリン県のソビボル村においた強制収容所のひとつである。 そのソビボル(Sobibor)絶滅収容所は、ポーランドのユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた3大絶滅工場のひとつである。 3大収容所とは、すでに述べたようにベルゼック絶滅工場、ソビボル(Sobibor)絶滅工場そしてトレブリンカ(Treblinka)絶滅収容所の3つを指す。 現地ソビボールにある記念碑 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12 ソビボル絶滅収容所は1942年3月に竣工し、以降、閉鎖されるまでの間、ユダヤ人、ソ連兵捕虜、ロマ(ジプシー)などが大量に輸送され、ガス室などに送られた。 ルブリンからソビボルに移送されたユダヤ人 ルブリンからソビボルに移送されたユダヤ人 ソビボルでは、1942年4月から1943年10月まで運用され、1942年5月~7月までの間にユダヤ人10万人、1942年10月から1943年春までに7万~8万人のガリシア・ユダヤ人、 14.5万から15万人の総督領のユダヤ人、2万5千人のスロバキア・ユダヤ人が殺害されたとしている。 以下はソビボルに送られた国別の割合である。 Source:http://www.sobibor.info/images/reinhard2.gif 1943年3月にはフランス系ユダヤ人が始めて到着、1943年3月から7月にはオランダ系ユダヤ人3万5千人が到着。ロシアのヴィルナ、 ミンスク(Minsk)そしてリダ(Lida)ゲットーのユダヤ人も殺害された。 上記の合計で推計最大約25万人が殺害されている。 ソビボルは、他の絶滅収容所同様、ウクライナ、ベラルーシュなどとの国境近くにある。いずれも人里離れたひとけのない地域、さらに鉄道輸送が便利な地域に立地されているという共通点がある。 ●ソビボル絶滅工場の概要 ソビボルは3大絶滅収容所のうちベルゼックに次いで稼働している。 地域はルブリン地区にあり、ラインハルト作戦執行責任者であるオディロ・グロボクニクが立地を決定した。 理由は、あまりひと気がなく、森に囲まれて発見されにくい。かつ鉄道が通っていることである。 1942年3月からリヒャルト・トマラ親衛隊大尉の指揮のもとに建設工事が開始され4月に完成している。 絶滅収容所の総面積は58haで周囲は鉄条網と濠と地雷が設置されている。さらに機関銃を備え付けた監視塔が4つ備わっていた。 ソビボル駅から別れた線路がソビボル収容所入り口までのびていた。 ソビボルの敷地にはチューブがありそこに送り込まれた囚人は出口近くで「処理」された 下はBBCのドキュメントに出てくるソビボル絶滅収容所のイメージ図である。下側に鉄道のレールがあり、右上にガス室がある。両者は選別広場を挟んでチューブ(The Tube)で結ばれていることが分かる。 Source:Auschwitz:The Final Solution BBC Source:Auschwitz:The Final Solution BBC Source:Auschwitz:The Final Solution BBC 下はソビボル駅からソビボル絶滅収容所への鉄道の引き込み線である。 Source:http://www.jewishgen.org/ForgottenCamps/Camps/SobiborEng.html 下は現在、ソビボルで保存されていた司令官がいた建物(復元建築物)。 Source:Holocaust Education & Archive Research Team Source:Holocaust Education & Archive Research Team ソビボル絶滅工場の概要図(グリーンの部分がチューブである) 以下はソビボル絶滅収容所に関連して残されている数少ない写真の一枚である。 ソビボル絶滅収容所に関連して残されている数少ない写真の一枚 Source:English Wikipedia 下はソビボル博物館のイメージ図である。下に示した概念図と「鉄道軌道」、「点呼広場」、「チューブ(The Tube)」、「ガス室(Camp3)」、「作業員バラック(Camp1)」など、主要施設の配置がほぼ同じであることが分かる。後に英国の映画監督により制作される映画「ソビボルからの脱出」を見ると、以下の配置図をもとに全体が構成されていることが分かった。 Source:Holocaust Education & Archive Research Team ソビボル絶滅収容所の概要図。鉄道の引き込み線がある ◆追記:以下は映画「ソビボルからの脱走」(Escape from Sobibor)から (追記:2010年11月1日) 以下は映画「ソビボルからの脱走」の場面を静止画にしたものである。映画であり実物の写真ではないが、生存者の証言をもとに制作された映画であるので、かなり実際の物に近いものと思われる。 下は映画「ソビボルからの脱走」に出てくる「チューブ」(The Tube)。150mほどある。映画では少年がこのチューブを歩く。この道は外から見えないように密度の高い垣根で両側を塀にしている。中を歩く人も外は見えない。 出典:映画「ソビボルからの脱走」より チューブの先には更衣室があり、シャワーを浴びると言われ、皆、裸になる。 出典:映画「ソビボルからの脱走」より 下は映画「ソビボルからの脱走」に出てくる脱衣室から裸になって送り込まれるガス室(Gas Chambers)の一場面である。この構図はアウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクでも同じである。 出典:映画「ソビボルからの脱走」より ガス室には自動車や戦車の排ガスが引き込まれ一酸化炭素ガスで殺されたとされている。殺されたユダヤ人らはすぐその隣にある焼却炉で次々に焼却された。 出典:映画「ソビボルからの脱走」より ◆追記:英国BBCのソビボル絶滅収容所特集より (追記:2010年11月1日)
●大脱走と絶滅収容所の閉鎖 看守たちは20名ほどのSSと約100名のウクライナ人義勇兵で構成され、SSが工場の管理職について元ウクライナ兵の監視員たちを指揮する体制になっていた。 多数がその場で銃殺、殺害されたが、約50人が終戦まで生き残った。1943年10月に収容所は閉鎖され農場に見せかけられた。 証拠隠滅のためソビボル絶滅収容所の建物を解体している様子を撮影した貴重な写真 Source:Holocaust Education & Archive Research Team この大脱走事件の後、このソビボルは閉鎖されることとなる。ただし、ソビボルの名は冒頭の地図にあるように、戦後も絶望収容所付近の村の名前として残っている。 なお、囚人たちから最も悪質な看守として恐れられていたグスタフ・ワグナー(映画でも最大の悪役として登場している人物)は、ナチス国家の崩壊後、どこの国とも犯罪人引渡条約を結ばないブラジルへ逃げこんだため、罪からは逃げおおせている。しかし1980年10月に謎めいた自殺をしている。 参考:Wikipedia ●ソビボルの映画化 上述のようにソビボル絶滅収容所では、1943年10月に600人の囚人たちが反乱を起こした。 映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出」(Escape from Sobibor) そのうち約半数が第一次の脱出に成功し最終的に50から60人が完全脱出している。 それらがジャック・ゴールド監督の映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出」(Escape from Sobibor)に描かれている。1987年の英国映画である。 つづく |