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ポーランド現地調査(後半)
ポーランド東部の3大絶滅収容所
ベルゼック(Belzec)

青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学大学院環境情報学研究科

池田こみち Komichi Ikeda
環境総合研究所(東京)

19 June 2009 拡充 1 November 2010 
初出:
独立系メディア「今日のコラム」

前半 後半 全体
【ポーランド南部の強制収容所 視察】 【ポーランド東部の強制収容所 視察】
3月10日:クラクフからアウシュビッツへ 3月12日:東部の3大収容所、ベルゼック
3月10日:アウシュビッツ収容所の施設概要 3月12日:東部の3大収容所、ソビボル
3月10日:アウシュビッツ収容所の歴史を知る 3月12日:東部の3大収容所、トレブリンカ
3月10日:死の壁・集団虐殺実験・断種実験 3月12日:マイダネク強制収容所の概要
3月10日:強制連行・収容・虐殺・飢餓・遺品 3月12日:マイダネク強制収容所の歴史
3月10日・絞首台・前置室・人体焼却炉 3月12日:マイダネク強制収容所の実態
3月10日・アウシュビッツからビルケナウへ 【ポーランド東部の古都視察】
3月10日:ビルケナウの強制収容施設に入る 3月12日:夕暮れのルブリン旧市街へ
3月10日・ビルケナウの焼却施設を調べる 3月13日:旧市街からルブリン城へ
3月10日:アウシュビッツ・ビルケナウへの鎮魂 3月13日:ルブリンの歴史を知る
【ポーランド南東部の古都 視察 3月13日:ルブリン城(博物館)
3月11日:南西ポーランドのプジェミシル 3月13日:心の故郷、カジミエーシュ村
3月12日:ジェシェフからザモシチへ 3月13日:中世の美しい村カジミエーシュ
3月12日:中世の要塞都市ザモシチを歩く 3月13日:世界的オルガンがあるヤン教会
総括報告

■2009年3月12日 ポーランド東の3大絶滅収容所、ベルゼックを知る
 
 奇跡的に中世そのままの姿で現代に生き残った要塞都市(現在は世界遺産)、ザモシチ(Zamoc)を歩いたあと、私たちは簡単な昼食をとり、一路、ポーランドとウクライナの国境沿いにあるベルゼック、それにソビボルという2つの強制収容所に向かう。

 ベルゼック(Belzec)とソビボル(Sobibor)は、ナ
チス・ドイツが敗戦前に徹底的な証拠隠滅作戦で施設そのものを破壊したため、現在はアウシュビッツ、ビルケナウそれにこれから行くマイダネクのように博物館的に収容施設、ガス室、焼却炉などの実物が保存、展示されているわけでない。

 私たちは昨日同様、ウクライナとの国境近くまで車を飛ばすが、一旦小振りになったみぞれまじりの雨がまたもや激しくなった。ウクライナとの国境近くまで行ったが、時間の関係で折り返しソビボルに向かうこととした。


ベルゼック絶滅工場跡にある祈念碑

 以下は調査前及び調査後に調べたベルゼックに関する概要を整理したものである。


●東ポーランド3大強制収容所とベルゼック収容所

 ベルゼック強制収容所は、第2次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランド東部ルブリン県のソビボル村においた強制収容所のひとつである。 そのベルゼック(Belzec)収容所は、ポーランドのユダヤ人絶滅(Extermination)を目的としたラインハルト作戦に則って作られた3大絶滅収容所のひとつである。

 3大収容所とは、上述のベルゼック強制収容所、ソビボル(Sobibor)強制収容所、トレブリンカ(Treblinka)強制収容所の3つの強制収容所を指す。とりわけベルゼックは3大収容所の中で最初に作られ、他の2つの絶滅収容所のモデルともなったとされる。

 ちなみに私は、それにマイダネク(Majdanek)強制収容所を加え、東ポーランドの4大強制収容・絶滅施設と呼んでいる。




 ベルゼック収容所は1942年4月に竣工し、以降、閉鎖されるまでの間、ユダヤ人などが大量に輸送されてきて、ガス室などに送李込まれた。

 下の地図は4大強制収容所の位置を示している。いずれもウクライナ、ベラルーシュなどとの国境近くにあることが分かる。また3大収容所は、いずれも人里離れたひとけのない地域、さらに鉄道輸送が便利な地域に立地されているという共通点がある。


東ポーランドにおける4大強制収容所の位置
出典:赤丸は青山、
元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html

 ベルゼックでは、強制収容所の設置から最終的な閉鎖までのわずか1年間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめロマ民族、ポーランド人政治犯などが強制収容され、その多くは比較的短期のうちに殺害され、犠牲となっているという。

 下はベルゼック収容所の計画図の一部。



 以下はベルゼック収容所の絵画。上の図では人体を野焼き、下の図では強制収容された囚人がグランドに集められていることが分かる。





 ベルゼックは、ルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した最初のユダヤ人絶滅収容所であった。

 ベルゼックが東部の強制収容所として選ばれた理由は、上述したように①はひと気がなく、②鉄道に近い場所であったためであった。これらはアウシュビッツなどとも共通するものである。

 ベルゼック強制収容所の入り口は、鉄道のベルゼック駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにあった。

 1941年11月から建設が開始され、1942年2月に完成している。

 ベルゼックの初代所長には、のちに3大絶滅収容所の総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。1942年1月のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将がラインハルト計画を立ち上げるとベルゼックは改めて3大絶滅収容所の一つとされた。

 ベルゼック収容所では1942年3月よりガス室を使っての絶滅作戦が開始されたとされている。


ベルゼックの司令部の外に整列するSS


ベルゼックを視察するクルツ・フランツ

 ベルゼック収容所には2ブロック存在し、1ブロックは囚人の到着にかかる事務を担当するブロックで囚人から衣服や荷物をはぎ取り保管するための場所となった。

 第2ブロックには、10個のガス室が設置され、他に共同墓地や死体の搬送作業などに当たる労務囚人の住居スペースなども存在したというい。

 絶滅収容所であったベルゼックは一般の作業場を設けなかったため収容所としては狭く、縦275メートル、横263メートルのほぼ正方形型の収容所だった。

 そのなかに5か所の監視塔があり、機関銃が常にガス室へ向かう囚人たちに狙いをつけていた。看守は20名から30名の親衛隊員と60名から80名のウクライナ義勇軍の兵士で構成された。看守たちは収容所内ではなくベルゼック駅の付近に住居を持ちそこで暮らしていたという。

 1942年末になるとポーランドにおけるユダヤ人社会がほぼ壊滅し、またアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所が巨大化したため、ベルゼックの必要性は薄れた。1942年12月をもってベルゼックは活動を停止した。

 その後、絶滅工場の死体の焼却と植林など証拠の大隠滅作業が始まった。そして1943年半ばにベルゼックは完全に解体され跡形もなくなった。

 下はベルゼック強制収容所の立地図。引き込み線が敷地内まで入っていることが分かる。ベルゼックは収容を主眼においてなく、到着した囚人は


1942年5月のベルゼック強制収容所の立地図

 下の図は、上の1942年5月時点のベルゼック収容所が12月にさらに拡大、拡充されたもの。

 9,10,11、12がガス室関連、13が人骨踏粉砕装置となっている。


1942年12月時点におけるベルゼック強制収容所の立地図


●2005年の映画「ベルゼック」(仮題)

 ベルゼックやソビボルについては、映画で制作されている。ベルゼックについては、フランスのGuillaume Moscovitz氏が監督している。以下はベルゼックの公式概要。

 ショア(ユダヤ人大虐殺)の歴史の中でほとんど忘れ去られたベルゼック。年代的に見て、占領下ポーランドのユダヤ人を虐殺するナチスの計画、ラインハルト・アクション最初の強制収容所である。

 完全な撤去が1943年初頭の数ヶ月で行われたが、これはソビボルとトレブリンカの取り壊しの約一年前にあたり、ヨーロッパのユダヤ人虐殺の跡を消し去ろうとするナチスの意向を証明している。

 ナチスによる工業化されたユダヤ人大量虐殺は人々の命を奪うだけに留まらず、死体、氏名、住所の抹消にまで及んだ。今日否定主義と呼ばれる動きは、ナチスの虐殺において既に原則であった。虐殺の跡を抹消することは、ユダヤ民族の滅亡計画の一端をなしていたのである。

 1960年代末に死亡したルドルフ・レーダーとリュブリンで終戦直後に殺されたヒャイム・ヒルツマンを除いて、証言のためにベルゼックの収容所に帰ってきたものはいない。

監督はこの抹消の後遺症をカメラに収め、我々の現代の暴力をお見せする。破壊のみ残された世界で、過去をどうやって証明するのだろうか。

映画「ベルゼック」より

 私たちはみぞれが降る中、ベルゼックからやはりウクライナとの国境沿いにあるソビボル絶滅収容所に向かう。


ベルゼック  Белжец ロシア語文献

 1941年11月、ドイツ当局は占領下のポーランド南東部にある労働収容所の跡地に絶滅収容所の建設を開始した。

 ドイツの第 2 絶滅収容所であるベルゼックは、1942 年 3 月 17 日に運営を開始しました。 1942年3月から12月にかけて、ドイツ軍は約43万4,500人のユダヤ人と、キリスト教徒のポーランド人やジプシー(数は不明)を絶滅のためベルゼックに移送した。犠牲者のほとんどはポーランド南部の都市ゲットー出身のユダヤ人でした。ドイツ軍はまた、ドイツ人、オーストリア人、チェコ人のユダヤ人をベルゼックに強制送還した。

 死の収容所のスタッフは、少数のドイツの親衛隊と警察官、および元ソ連の捕虜とウクライナ人とポーランドの民間人からなる補助治安警察部隊で構成されていた。死の収容所の 2 つのセクションは、「ガット」と呼ばれる狭い柵で囲まれた道でつながっていました。虐殺が行われた地域にはガス室や埋葬地がありました。有刺鉄線のフェンスに枝が編み込まれ、周囲に植えられた木々がキャンプ内で起きていることを覆い隠していた。

 40~60両の貨車を積んだ列車がベルゼック駅に到着し、各列車には80~100人が詰め込まれていた。一度に20台の馬車が死の収容所の領域に配達されました。到着したユダヤ人は下船するよう命じられた。親衛隊と警察は、強制送還されたユダヤ人たちが通過キャンプに到着し、貴重品をすべて引き渡すよう求められたと発表した。

 ユダヤ人は服を脱ぐことを強制され、シャワーに見せかけたガス室に直接つながる「腸」を強制的に突き通されました。ドアが施錠された後、一酸化炭素がガス室に放出され、中にいた全員が死亡した。このプロセスは、次の20両の車両から追放された男性、女性、子供たちに対しても繰り返されました。

 強制労働をさせるために生き続けた囚人のチームがガス室から遺体を運び出し、犠牲者を集団墓地に埋葬した。他の囚人は、次の強制送還に備えて、被害者の持ち物を分類したり有蓋車を掃除したりすることを強制された。キャンプのスタッフは定期的にこれらの作業チームを破壊し、新しい到着者と置き換えました。

 1942 年の秋、ドイツの親衛隊と警察職員は、ユダヤ人捕虜のチームを使って集団墓地を掘り起こし、レールで作られた屋外の「オーブン」で死体を焼き始めました。ドイツ人は骨片を細かい粉にする破砕機も使用した。 1943 年の春の終わりまでに、収容所は清算されました。 1943年6月、残りのユダヤ人捕虜はベルゼックで射殺されるか、ソビボル絶滅収容所のガス室に送られた。ベルゼックキャンプの清算後、ドイツ人はその領土を耕作した。ソ連軍は 1944 年 7 月にこの地域を占領しました。


ベルゼク 
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Белжец  Материал из Википедии — свободной энциклопедии
安定版、2024 年 7 月 27 日にレビュー済み。


ベルゼク  ドイツ語 ベルゼク

 タイプ 強制収容所
 死の収容所
 位置 ベルゼック、総政府、ナチスドイツ
 座標 50°23'00'' n. w。東経23度26分00秒。 d.HGIO​​​​
 稼働期間 1942年3月 - 1943年6月
 死者数 最小 434,500
 統括
 団体 SS
 キャンプ司令官 クリスチャン・ヴィルト・
 ゴットリーブ・ゲーリング
 Webサイト www.belzec.eu
 ウィキメディア・コモンズのロゴ ウィキメディア・コモンズのメディア・ファイル
 収容所「ベルゼック」(ドイツ語では ベルゼック、ポーランド語では ベウジェツ)は、 1942年から1943年にかけてルブリン県の南東、ポーランドの同名のベルゼック村近くに存在したナチスの 強制絶滅収容所です。

KL ベウゼツ (ポーランド)ドットKL ベルゼック

 ポーランドの地図上のベウゼツ強制収容所の位置
ベルゼック村は 1515 年から知られています。第二次世界大戦前、住民2,000人のうちユダヤ人は100人強であった[ 1 ]。 1939 年にナチス ドイツとソ連の間でポーランドが分割された後、ナチスはベウジェツに労働者強制収容所を設立しました。

 1940年8月までに、収容所にはラドム、ルブリン、ワルシャワ、およびその周辺地域から来たジプシー、ユダヤ人、その他の国籍の囚人が約1万1千人いました。彼らの任務は、ドイツ軍とソ連軍の対立線のドイツ側に対戦車城壁を建設することでした。

 1941 年 11 月に、ポーランド人とユダヤ人の労働者によって絶滅収容所の建設が始まりました。 1942 年 2 月までに、ルブリンとルフフを結ぶ側線に近いベルゼック駅から 0.5 キロメートルの場所に、収容所の主要施設 (3 つのガス室を備えた兵舎を含む) の建設が完了しました。

  1942年3月初めにガス室の実験が完了し、その間に隣町リュビチャ・クルレフスカヤのユダヤ人のいくつかのグループと収容所を建設していたユダヤ人が破壊された。 1942年3月、ベルゼックの絶滅収容所はフル稼働で稼働していた。すでに3月中に、ルブリン、リボフ、その他東部ガリシア地域のゲットーから約8万人のユダヤ人がベルゼックのガス室で絶滅され、1日5台の列車で移送された[ 2 ]。

 収容所は1943 年までしか機能しませんでした(月に 2 回、4 月から 5 月と 6 月から 7 月に休憩がありました。休憩中にガス室の数は 3 つから 6 つに増加しました)。この期間中、ベルゼックでは60万人以上のユダヤ人と約2,000人のロマ人が死亡した[ 2 ]。

捕虜の破壊

 ベルゼックにおける絶滅収容所のシステムは、他の絶滅収容所(マイダネク、アウシュヴィッツ、ソビボル、トレブリンカ)と同様であった。

 選択 - 男性を女性と子供から分離します。

 人々は、作業キャンプに移送される通過キャンプに到着したこと、そして衛生上の理由から、裸になって消毒し、シャワーを浴びるべきであることを告げられた(ガス室の標識には「シャワー」と書かれていた)[ 2 ] ]。

 ガス室に行く途中での殴打や虐待は日常茶飯事だった。

キャンプの清算

 1943 年の春まで、すべての死体は埋葬溝から (本来の目的には使用されなかった対戦車戦車のものも含む) 取り出され、焼かれました。キャンプ地には樹木や低木が植えられており、その一部には農業用農場が設けられている[ 2 ]。

 1945 年1 月 12 日 、収容所は赤軍によって解放されました。


囚人の回想録

Willem Lodewijk Harthorn、Verboden te sterven、Van Gruting、2007、ISBN 978-90-75879-37-7

Johannes Teunissen、Mijn belevenissen in de Duitse concentratiekampen、コック、2006、ISBN 978-90-435-0367-9


つづく