|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◆南相馬市浜通りの被災住民との議論 梅雨のさなかにも拘わらず太陽が顔を出し夏の陽射しに海が美しい。そんな中、南海老地区の海岸には数名の釣り人が集まっていた。車を降りて道路や家屋の被害の状況を見ていると、軽トラックに乗った二人の男性が海や被災地を眺めていたので声を掛けてみると、堰を切ったように被災の状況を話し出した。 被災住民に話しかける池田こみち 撮影:鷹取 敦 南海老地区の海岸は、下図の鹿島区の相馬市に近い海浜地区を指す。 南相馬市全図 撮影:青山貞一 下の津波被災状況図で南海老地区を見ると30kmの橙色の破線が海にぶつかる周辺である。 南相馬市の東日本大震災の津波による被災状況図 撮影:青山貞一 ここは南海老という地区で、北端の高台には70世帯が暮らしていたが、すべて流されてしまった。亡くなったのは高齢者というより、若い人が多かった。地震直後に車で自宅の様子を見に戻った直後、津波に襲われ、車ごと流された人が多い。 この地区では20名以上が亡くなっており、まだ3名近く行方不明だ。津波直後に集落の高台にある墓地に逃げた人によると、引き波で、一旦海の底が見えるほど沖のテトラポットの防波堤まで水が引き、その後、高台の松の木のてっぺんを越える大津波が襲った。車で地区の運動場(かなり高台)に逃げた人はそこで津波をもろに受け、車ごと裏のため池に流されそこで大勢が亡くなった。 被災住民と議論する池田こみち 撮影:鷹取 敦 南相馬市沿岸被災地 コンクリート堤防が破壊されていた 撮影:青山貞一 海に面して建っていた家は友達の家だが、土台も残らないほど流されてしまった。今は、地区の人たちはバラバラになってそれぞれ避難している。これほどの被害にあうとは、悲しいを通り越してもう笑う以外にないほどだ。 幸い、この地区は海に面しており、一年を通じて東風が強く、原発からの放射能は低い。震災後、立派な椎茸ができたので、みんなで食べてしまい、放射能が高かったらと心配したが、保健所に聞いたら60歳以上は問題ないと言われ、一安心した。年寄りはまだしも子供たちが心配だ。 堤防から数十メートル先に作られたテトラポットの防波堤の上には船に合図を送る小さな灯台が3カ所取り付けられているが、そのうちの一つは津波前にはひっくり返っていたのに、津波でまっすぐに起きあがってしまった。 相馬市との境の農地だったところは、今では湾のように水がまだ引かない。 自衛隊が整理した瓦礫の山と水がまだ引かない農地 右は原町火力発電所 撮影:鷹取敦 南相馬市の浜通り地区でも要所で放射線量を測定した。 南相馬市浜通り海浜被災地で放射線を測定する 撮影:青山貞一 南相馬市海浜部の津波被災地(動画からの切り出し) 撮影:青山貞一 南相馬市海浜部の津波被災地(動画からの切り出し) 撮影:青山貞一 結果は0.26〜0.36μシーベルト/時と、飯舘村や南相馬西側の濃度に比べ約1/10と低いことが分かった。 福島放射線現地調査結果(2011.6.19午前) 単位:μシーベルト/時
測定地点は、下の汚染地図の南相馬市東側(海沿い)20kmから30km圏及びその北の相馬市との境界近くにある。いずれも薄い紺色部分である。いずれも福島第一原発から近い距離にありながら海風と地形の関係からか放射線レベルは低い。 出典:文部科学省及び米国エネルギー省 下の地図は、6月18日から20日、実際に車で走行したリートと地点をGPSデータを元に表示したものである。 図 福島放射線現地調査ルート図 出典:環境総合研究所 南相馬市浜通り海浜部の被災地を一通り視察し、上記の放射線測定した私たちは、午後1時、再度市役所に行き、市長と1時間ほどあらかじめ連絡していたテーマについて議論した。 南相馬市櫻井市長との議論。3階の市長応接室にて 撮影:鷹取 敦 午後2時から在京テレビ局の情報番組の取材が入っているということで、私たちは以前から係わっている南相馬市南部、原町大甕地区の産廃処分場の紛争現場に向かった。 何でも3.11以降、市長にはその種のテレビやマスコミ取材が1000件ほどあったそうで、膨大な時間がテレビ取材などにとられたことになる。 つづく |