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宮城/岩手被災復旧復興調査
E岩手県大槌町

池田こみち・青山貞一
環境総合研究所顧問
掲載月日:2012年12月12日
 独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

宮城/岩手被災復旧復興調査
@宮城県気仙沼市階上地区    F宮城県南三陸町
A宮城県気仙沼市気仙沼地区    G宮城県石巻市大川小学校
B岩手県陸前高田市    H宮城県石巻市長面浦地区
C岩手県釜石市唐丹町    I宮城県石巻市雄勝町
D岩手県釜石市鵜住居町    J宮城県名取市閖上地区
E岩手県釜石市大槌町    K全体総括表
福島県新地町被災者から届いた一通の手紙
宮城/岩手仮設焼却実態調査報告はこちら!

 2012年11月22日〜25日、青山貞一、池田こみち(ともに環境総合研究所顧問、東京都品川区)は、宮城県、仙台市および岩手県内の「がれき処理状況」を現地視察したが、それに関連し、津波被災地を訪問してきたので、概要を紹介したい。

第1日目 2012年11月23日(金)

■岩手県大槌町

 私達は釜石市鵜住居を現地視察した後、一路岩手県大槌町に向かった。大槌町では3.11大津波により人口の約一割が死亡し、町長はじめ町役場職員が亡くなるなどの大惨事となった基礎自治体である。

市町村名 死者数A 行方不明者数B 死者+行方不明者数A+B=C
大槌町 797 653 1,450

 3.11で甚大は人的、物的被害を出した岩手県大槌町だが、この大槌町では1896年の明治三陸津波でも以下の旧内務省資料にあるように、900名もの死者と500戸を超える流失倒壊戸数を出している。また1933年の昭和三陸津波でも27名の死亡者、222戸が流失倒壊している。

★大槌町
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:3.8m* *3.8m(C1934)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
再生形態:分散移動
  波高:2.3m*   *2.3m(C1934)
死者:*   *27人(大槌・小槌)(C1934)
流失倒壊戸数:*   *222戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):* *8.66ha(C1934)
浸水家屋:* *135戸(大槌+小槌)(C1934)
★赤浜(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:4.2m* *4.20m(C1934)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
  波高:3.9m*   *3.90m(C1934)
流失倒壊戸数:*   *4戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):* *0.29ha(C1934)
浸水家屋:*   *26戸(C1934)
★浪板(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:8.85m* *8.85m(C1934)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
再生形態:分散移動
  波高:4.75m*  *4.75m(C1934)
流失倒壊戸数:*  *6戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):* *0.09ha(C1934)
★吉里吉里(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:8.5m* *8.5m(C1934)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
再生形態:分散移動
  高:4.2m*   *4.2m(C1934)
死者:10人*   *6人(C1934)
流失倒壊戸数:107戸 * *97戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):21466坪*
   *7.09ha(C1934)
浸水家屋:170戸*  *10戸(C1934)
再生形態:集団移動
移動戸数:100戸
達成面積(坪):4932坪
★安渡(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:3.0m*  *3.0m(C1934)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
  波高:2m*   *2.00m(C1934)
死者:22人*   *14人(C1934)
流失倒壊戸数:171戸(安渡・惣川・小枕) *  *151戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):* 
   *3.69ha(C1934)
浸水家屋:218戸*   *20戸(C1934)
再生形態:集団移動
移動戸数:20戸
達成面積(坪):930坪
★小槌(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
  死者:29人*  *27人(小鎚・大鎚)(C1934)
流失倒壊戸数:*  *222戸(小鎚・大鎚)(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪)*  *12.40ha(C1934)
浸水家屋:561戸* *135戸(小鎚・大鎚)(C1934)
再生形態:集団移動
★小枕(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
   流失倒壊戸数:171戸(安渡・惣川・小枕)
家屋流失倒壊区域(坪):
再生形態:集団移動
移動戸数:40戸
達成面積(坪):1782坪
★惣川(現在、大槌町)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:900人(大槌町)
流失倒壊戸数:500戸(同上)
  流失倒壊戸数:171戸(安渡・惣川・小枕)
家屋流失倒壊区域(坪):
移動戸数:20戸
達成面積(坪):790坪
参照・引用文献の出典:
 ・明治大学 建築史・建築論研究室著の「三陸海岸の集落 災害と再生」
 ・青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 過去の津波被害(詳細)

 大槌町の沿岸域は、堤防、道路、水門、住宅などの破壊状況、沿岸域の樹木、土壌、地層などへの影響から3.11大津波により最低でも津波の高さは、TPから12m、最高で30mを超す遡上高が生じていたと推定される。


出典:東京大学地震研究所 都司嘉宣氏らによる「三陸南部の調査結果」

 
参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
     東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ 
     グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
     津波現地調査結果/岩手県 
     過去の津波情報

 以下は岩手県内の市町村別の死者、行方不明者数である。


出典:東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会配付資料

2011年8月現地調査時の大槌町の被災状況
 〜現地に見る生死の分かれ目〜

 地域によって異なるが、各地で目視で確認及び住民らへのインタビューでは、津波の高さは市街地でも3階のビル屋上を超え20mに及んでいる地域も結構あった。

 また海に流れ込む河川がある場合、例えば中小の河川の場合、上流5km近くまで津波が押し寄せ家屋を破壊していた。

 岩手県大槌町では高台にある大槌稲荷神社の宮司さんに詳細なインタビューを行った。

 大槌町は小さな町で1500人近くが亡くなったり依然として行方不明となっている複雑に海岸線が入り組んだリアス海岸の一角にある町だが、神社に逃げ込んだ地域住民は命が助かったが、家財などを取りに自宅に戻った人(主に父親)は帰らぬ人となったとのことである。

 この神社では3.11以降、当分の間150人もの被災住民を境内、神社内で対応したとのことである。

 以下は大槌町の安渡地区で生死を分けた大槌稲荷神社の階段である。上から2段下近くまで津波が押し寄せたという。


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社の階段  撮影:青山貞一

 下の写真で青山の右足が置いてあるところまで津波が押し寄せたとのことである。


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社の階段にて 撮影:池田こみち


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一

大槌稲荷神社
 〒028-1105:岩手県上閉伊郡大槌町安渡2丁目8−1

 稲倉魂命・健御名方命二柱を御祭神として、当初は笹原稲荷の社名で、現在の寺沢の地に祀ってあったが、その後鳩崎(現在の釜鼻の地)に鎮座、 時代の経過とともに参拝者が増え境内が手狭となり、享保五 年(1720年)現在地、稲荷山に再遷宮 を以って社名を二渡神社と改称しましたが、昭和18年11月18日、社名を大槌稲荷神社と改め今日に至っています。 海の神社の特色を持ちながら、五穀豊穣・海上安全・富国安民の祈誓をこめられるなど、沿岸地方にあって霊験あらたかなお社として崇敬されています。(大槌商工会HPより)


大槌稲荷神社の位置  出典:グーグルマップ

震災前の大槌神社鳥居の写真
出典:ばばちゅさんのブログ 大槌稲荷神社
http://blogs.yahoo.co.jp/baba_chu/59785004.html

 以下は大槌稲荷神社の宮司さんへのインタビュー論考である。

◆大槌稲荷神社からみた津波の恐怖  池田こみち

 大槌町は岩手県南部(宮古市から陸前高田市)のいわゆるリアス式海岸に面し、湾口から8kmほども深く切れ込んだ大槌湾のほぼ中央部に注ぎ込む大槌川と小槌川が作り出した狭い扇状地に中心市街地が広がっている。今回の震災では、人口15,239人(平成23年3月現在)の約10%近くに相当する1,408名(8月26日17:00現在)が死亡及び行方不明者、倒壊家屋数3,677棟と報告されている。

 写真からも明らかなようにほぼ町が壊滅した状況が見て取れる。まさに空爆のあと、原爆投下の跡さながらの様相であった。

 私たちは、遠野市から県道35号、さらに国道45号を経て釜石側から大槌町に入った。眼前に広がる痛々しい津波の爪痕、ガレキはほぼ仮置き場への集積が終わっていたものの、家々の土台だけが残る人影のない町の光景は見る者の心に重い石をずっしりと落とし込んでいった。

 本来、町を守るはずだった高さ8mの防波堤の無惨な姿、安渡地区に唯一残った骨組みだけのタクシー会社の鉄筋コンクリート造りの3階建てのビル、さらにその奥に津波に運ばれた船が津波の圧倒的な力を物語っている。私たちは高台に残った神社に向かった。


大槌稲荷神社の宮司さんにインタビューする池田こみち。
岩手県大槌町にて  撮影:青山貞一

 石段を登っていくと、宮司さんご夫婦が出てこられたのでお話しを伺うことができた。東京から被災地の今の様子を知るために来たというと快くいろいろ話をしてくださった。

 この神社には150人の方が避難してこられ1ヶ月近くを過ごした。地区には500世帯くらいあったと思うが、ほとんどの家が被災し多くの市民が被害にあった。神社に避難してきたのは女性や子どもが多く、お父さんたちは家族を避難させ、荷物を取りに戻ったり、様子を見に戻ったりして津波に巻き込まれた。

 津波は何度も襲ってきた。この神社は下の地面から20mくらいは高いと思う。町の人たちは、地区で唯一の三階建てビルであるタクシー会社の屋上に逃げれば助かると信じていた。しかし、今回の津波は三階の屋上に逃げた人々を易々と飲み込んだ。津波は神社の参道の石段をじわじわ上り、上から二段目まで達し、渦を巻いて神社に迫っていた。 

 赤い鳥居は土台を残して流された。神社から500mほど海に近い漁協の近くにあった神社(水神様)の石塔が流れて稲荷神社の下まで来ていた。漁港の方角から屋根
だけが船のように神社まで流れ着いた。神社のコンクリートの擁壁には津波が泥や
家屋、船、自動車などが流れ着きガレキとなって積み上がっていった。ガレキが撤去されるまでの間、ものすごい悪臭いと大きな銀蠅に悩まされた。

 稲荷神社での避難生活は過酷を極めた、約1ヶ月停電と断水が続き、避難者は26日間お風呂にはいることは出来なかった。水や食料は、稲荷神社の北側500mほどのところを通る国道45号まで歩いて上り、支援物資を背負って神社まで降りるという毎日だったが、物資がなかなか届かずに苦労した。幸い、神社には発電設備があったため、調理もできたが寒い時期の長期間にわたる避難生活は大変きついものだった。


大槌稲荷神社本殿 撮影:池田こみち


大槌稲荷本殿にて 動画撮影:青山貞一

 今は、自衛隊やボランティアなどの協力も柄ながらガレキは仮置き場に概ね片付けられたが、土台だけ残った町を高台の神社から毎日眺めるのはとてもつらく、自分たちもどこかに出て行きたい気持ちになる。町がほぼ全滅したために買い物も釜石まで出なければならず大変だ。

 ここから眺めると、川には堰をつくり、海には堤防をつくり、人間は自然を支配したかのように開発し自然を痛めてきたが、それらは結果として人をまもらず、自然の威力が町を人を破壊し尽くした姿が残った。私たちはこれまでの自然との接し方、鉄とコンクリートで押さえ込もうとしてきたことを反省しなければならいのではないかと宮司は静かに語り荒涼とした町に目をやった。

 私たちは、天明3年(1783年)に浅間山噴火で灰に埋もれ、90名が村の高台にあった鎌原観音堂に逃げて助かった話をした。村を守る神社や寺社は多くの場合高台に設置されている。

 鎌原村では観音堂への石段を登りきれず途中で流れてくる溶岩や火山灰に押しつぶされた人もいた。いつの時代も自然は厳しいその営みを繰り返し人々に苦悩を与えてきたが、その都度、人はその経験を踏まえ自然への敬意と畏敬の念を新たにその苦しみを乗り越えてきた。今回の地震と津波、さらには福島第一原発の事故を経験し、私たちはもういちど自然への敬意と畏敬をもちながらこの国を立て直していけるのか、一人一人が問われている。

2011年11月現地調査時の大槌町吉里吉里地区の状況

 2011年11月20日日曜日、私たちは前回の岩手県現地調査では瓦礫処理の作業中で現地への立ち入りが禁止されていた地域に入ることができた。

 前回は、町長や職員が多数亡くなった大槌町の市街地を中心に現地調査したが、今回は北にある山田町から大槌町の吉里吉里地区に来るまで入ることができた。

岩手県山田町から大槌町吉里吉里地区に向かう途中の被災状況
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下は山田町から大槌町吉里吉里に向かう途中の被災状況である。海沿いは壊滅的な被害を受けている。


岩手県山田町から大槌町吉里吉里地区に向かう途中の被災状況
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下は吉里吉里海岸の被災状況である。

岩手県大槌町吉里吉里地区海岸の被災状況
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 下の動画は大槌町の吉里吉里海岸から東大海洋研究所に向かう途中を写している。


岩手県大槌町吉里吉里地区にある東大海洋研究所に向かう途中
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 そのひとつは東大大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センターがある大槌町吉里吉里地区である。今回は吉里吉里地区に入ることができた。

 以下は前回調査時に書いた大槌町に関するブログである。

◆青山貞一・池田こみち:三陸海岸 津波被災地現地調査 G浸水域と神社


岩手県大槌町吉里吉里地区にある東大大気海洋研究所
国際沿岸海洋研究センターの入口にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


津波で壊滅した東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター
(赤浜地区)。3月15日撮影。出典:Wikipedia

 大槌湾に直面している同センターのビルは上層階まで津波の被害を受けており、未だに完全に研究機能が全面停止していた。同じく前回の岩手県調査で瓦礫処理中で立ち入り禁止となっていた大船渡市西側臨港部への立ち入りが可能となっており、全面的に調査を行うことができた。

岩手県大槌町吉里吉里地区にある東大大気海洋研究所
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 大槌町の吉里吉里地区は下図にあるように大槌湾と船越湾の間の半島地先に位置している。



大槌町臨海主要部地図   出典:マピオン

 以下は、グーグルマップで見た大槌湾の出口に近い吉里吉里地区にある東京大学の海洋研究所である。拡大してみると、被災状況がよく分かる。一方、縮小することで海洋研究所の位置が分かる。



 以下は東大海洋センターによるお知らせ文である。


 国際沿岸海洋研究センターは、生物生産性と生物多様性が高い三陸沿岸海域の中央部に位置する岩手県大槌町にあり、全国の研究者に対して施設や設備を提供し、船艇を用いた調査のサポートを行ってきました。

 2011年3月11日の東日本大震災では、東北地方・関東地方に未曾有の災害が発生しました。国際沿岸海洋研究センターのある大槌町でも、津波のために多くの町民の皆様が被災されました。心よりお見舞い申し上げますとともに、多くの方々が亡くなられたことに心から哀悼の意を表します。

 センターの建物・設備は、津波による水が3階まで達し、船艇をはじめとする全ての施設と設備が壊滅的な被害を受けました。しかし、センターの教職員・学生および震災発生時に来訪中の外来研究員の方々は全員無事でした。

 現在、千葉県柏市にある大気海洋研究所に教員と学生が移動し、研究活動を継続しています。大槌町の城山中央公民館の一室に復興準備室が設置され、復興に向けて歩み始めています。

国際沿岸海洋研究センター


津波で被災した東大国際沿岸海洋研究センター
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下は大槌町の中心市街地。8月に来たときとほとんど状況は変わっていないことが分かった。動画中、左側が大槌港、右側が山側である。


岩手県大槌町中心市街地
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


大槌臨港部中心市街地
出典:グーグルマップ


東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波で壊滅した大槌町
赤浜地区の岩手造船所付近。2011年3月15日撮影。出典:Wikipedia

 以下は、今回(2012年11月23日)の現地調査時に撮影した中心市街地から吉里吉里地区に至る大槌町のの復旧・復興状況である。

動画撮影:青山貞一 Yashika ハイビジョンビデオカメラADV-1025HD

動画撮影:青山貞一 Yashika ハイビジョンビデオカメラADV-1025HD

 上記動画からは、昨年11月に比べると津波の被害を受けた建徳物、構造物の撤去が進んでいることが分かるが、大槌港を中心とした中心市街地の復旧、復興は他地域同様、高堤防対応とするか、高台移転とするかなどまちづくりのグランドデザインが決まっていないことが未了なことが分かる。これは吉里吉里地区についても同様である。

つづく