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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


南京大虐殺 2

 原題:南京大屠杀
来源: 百度百科

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日
 

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南京大虐殺 2
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背景

松湖の戦い(
Battle of Songho

 1937年の
七夕事件を機に、日本軍は中国への大規模な侵攻を開始した。 同年8月13日から11月12日にかけて、日本の侵略軍は上海とその周辺で「の戦いを展開した。

  ※注)七夕事件
   1937年の7月7日に起きたので七夕事件と呼ばれる。
   七夕事件は日本で言う盧溝橋事件である。
英語では
   Marco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridge
   と呼ばれる

  ※注)松湖(Battle of Songho)の戦い
   松湖の戦い(8月13日の戦いと日本での第2次上海事変
   としても知られる)は、日本の侵略に対する抵抗戦争に
   おける日中の最初の大規模な戦いであり、最大かつ最も
   激しい戦いでもあった。日中戦争全体で。合計約100万人
   の日中軍が戦闘に参加した。1937年8月13日から11月12
   日まで、戦闘自体は3か月間続きました。日本軍は8つの
   師団と2つの旅団に20万人以上の兵士を投入し9万人が
   死傷。中国軍は、80万人以上の最精鋭のな中央教育隊、
   87師団、88師団、148師団、62旅団に投資し、30万人の死
   傷者を記録。 出典:XNEWS


  戦闘開始当初、日本軍は長らく上海に攻め込むことができなかったが、日本軍は側面作戦を実行し、11月5日に杭州湾の泉公亭と金山衛の間に上陸したため、中国軍は危機的状況に陥り、戦闘は急転直下した。

 1937年11月8日、蒋中正(
※注 蒋介石のこと)は完全撤退を命じ、その4日後には上海が失われ、松湖の戦い(ソンフの戦い)は終わった。 上海が日本に占領された後、日本軍はこの状況を利用して3方向から南京に向かって突進してきた。


日本軍に上海から南京への侵攻ルート
出典:
青山貞一「南京大虐殺」その背景と経過をNHKスペシャルより探る(1~9)

 中国側は、上海の西300キロにある首都南京の防衛準備を始めたが、撤退命令を急いだために後方の防衛要塞の引き継ぎがうまくいかず、日本の爆撃機による大規模な爆撃もあって、撤退は大敗北となり、北路の日本軍主力は無事に南京にたどり着くことができたのである。

 中華民国の首都である南京は、日本軍の直接的な脅威にさらされていた。
上海からの撤退があまりにも無秩序だったため、中国軍は上海から南京へのルートで効果的な抵抗を組織することができなかった。


爆破事件

 1937年11月、日本陸軍航空本部は「航空利用法」を制定し、その第103条で「戦略的攻撃の実行は、拠点内の政治、経済、産業等の中枢機関を破壊することにあり、重要なことは、市民に直接航空攻撃を加えて大きな損害を与えることである」と述べている。
 「恐怖を与え、彼らの意志を挫く」。 これは人類の戦争史上初めて、戦争で民間人や住宅街を直接ターゲットにした空爆が明示的に可能となったもので、戦争の倫理の底辺を破ったこととなった。

 1937年9月19日、日本の第三艦隊司令官である長谷川清は、南京などへの「無差別爆撃」を命じた。 これが広義の「南京大虐殺」の始まりだと考える歴史家もいる。 この日、日本の第3艦隊司令官・長谷川清は、第2連合空軍(1937年9月10日に大連から完成したばかりの上海公達飛行場に移されていた)に南京への「無差別爆撃」を命じた。

 午前8時15分、警報が鳴り響き、江陰要塞の望楼から「大量の敵機が江陰に向かって来ている」との報告があった。 すべての艦艇の砲手が陣取っている。 その数分後、33機の敵機の大群が高度3,000mで南西に向かって飛行しているのが見えた。

 この日は有名な「9・19空戦」の日で、我が空軍の第4旅団が4機の敵機を撃墜し、1機が負傷した日である。 後に中国空軍の伝説となった劉子剛は、この戦いで有名になった。

 午前9時20分頃、再びサイレンが鳴り、海軍は1時間前に西に飛んだ敵機群が無秩序に不規則に戻ってきているのを見て、我が空軍に負けたに違いないと予想し、砲撃で「送り出し」を行った。 敵機はショック状態で戦う気がなく、一発も撃たず、一発も爆弾を投げず、すべて東に向かって高速で逃げていった。

 午後2時半、再びサイレンが鳴らされ、28機の敵機が確認されたが、これも南京の中国空軍に撃退された。 今回、一行はあえて川沿いには飛ばず、中国の対空砲火の有効範囲内に戻ってきた。[8]


南京の戦い

 中国軍総司令部は事態の深刻さを深く憂慮し、17日、18日と3回にわたって会議を開き、南京の防衛について話し合った。 会議に出席した
ほとんどの将軍は、軍隊には早急な休養が必要であり、南京は軍事的に無防備であると考え、象徴的な抵抗しか提案しなかったが唐生芝は、南京が国の首都であり、孫文の墓があり、国際的な威信をかけ、軍隊の退却をカバーするためにも、南京を保持することを主張した。

 蒋介石は、首都防衛がナチスドイツの外交的仲介に有利に働くことを期待し、ソ連の軍事介入を待つことができると考え、司令官の唐生芝の助言を受けて、1~2ヶ月の短期間で南京を保持することを決め、11月26日に唐(上将)を南京守備隊長に任命して南京防衛を担当させた。 副司令官には羅卓英と劉興がいた。[8]

 ※注)上記については、青山貞一の以下の論考が参考になる。
  
青山貞一:「南京大虐殺」その背景と経過をNHKスペシャルより探る(1~9)

 中国軍総司令部は、南京を保持するという決定に基づき、12月初旬に日本軍が南京に接近する前に、約13個師団と15個連隊の合計10万人以上(約15万人という説もある)の兵力を動員して南京を防衛した。

 
これらの部隊の多くは、上海での激しい戦闘とその後の敗走の経験から、深刻な人員不足と士気低下に陥っており、また、数万人の新兵のほとんどは訓練を完了していなかった。

 唐生芝(タン・シェンジー)は、「南京に生き、南京に死ぬことを誓う」と繰り返し公言し、命令がなければ退却しないと蒋介石に約束した。 部隊が自力で川を渡って退却するのを防ぐために、唐勝之は背水の陣を敷いた。
 
 ※注)唐生芝(タン・シェンジー)については以下が参考になる。
 
国民的抵抗戦争の勃発日本軍の南京大虐殺(CPC)1 
  
国民的抵抗戦争の勃発日本軍の南京大虐殺(CPC)2


 
部隊に配下の船を司令部に引き渡すように命じ、下関から浦口までの2隻のフェリーを武漢に退避させ、第36師団に南京から下関の波止場に退避する唯一の道である義江門を封鎖するように命じた。「沈没船」のような命令で、その後の悲劇的な退避の下地を作ったのである。


南京の戦いの図[9]。

 1937年11月20日、中国国民党政府が「国民政府の重慶移転に関する宣言」を発表したことにより、政府機関や学校が大陸に移転し、多くの市民が南京から逃れることになった。 6月には都市部と農村部で101万5千人だった南京の居住人口は、前線から南京に逃れてきた兵士や難民を除いても、
12月初旬には46万8千人から56万8千人と推定されていた。

 22日には、人道的精神基づいて南京に残っていた20人以上の欧米人が「
南京安全区国際委員会」を結成し、南京市北西部に砲撃から避難する民間人のための安全区を提案した。

 29日には、南京市長が安全区国際委員会を承認し、食料、資金、警察を提供すると発表した。 また、唐生芝はこの地帯から軍隊を撤退させることを約束し、1937年12月5日、国際委員会は日本政府から曖昧な回答を得、すぐにこの地帯での作業を開始したのである。

 1937年12月1日、日本軍は江陰要塞を攻略し、同日、日本軍は南京攻撃の作戦命令を出し、南京戦が始まった。

 1937年12月2日、江陰の防衛線が失われた。 日中の江陰戦争では、中国海軍の主力である第一艦隊、第二艦隊がすべて沈没し、南京国民政府のアーチの役割を果たしていた唯一の水の壁が失われた。

 
日本軍は1937年12月10日に総攻撃を開始し、12月12日には唐生芝が脱走と退却を指示して、中国軍の抵抗を打ち破った。


南京大虐殺3につづく