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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


南京大虐殺 11

 原題:南京大屠杀
来源: 百度百科

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日
 

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南京大虐殺 11

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舞台裏の人物


1937年12月13日- 侵略日本軍による南京大虐殺の史実に関する展示(写真7枚)

 1937年12月13日、日本軍は南京を占領し、30万人の中国人同胞が残酷に殺害されるという惨事が起きたが、
武藤章はこの惨事を引き起こした犯人の一人である。 中国東北部への侵攻の際、関東軍は、中国を分割して水源を奪うために、テー王による擬似的な「モンゴル軍政」の樹立を計画したが、中国軍である傅宗義の部隊が水源抵抗を開始したため、テー王は失敗した。 1937年には、関東軍参謀本部の第3課長に転任し、戦争計画の立案、軍駐の設置、部隊の編成などを担当した。

 ※注)武藤章
  昭和期の陸軍軍人。明治25年12月15日熊本県生まれ。
  陸軍士官学校25期、陸軍大学校32期卒業。陸軍大学校
  卒業後、ドイツ駐在を挟んで1929年(昭和4)まで教育総
  監部勤務。鈴木貞一らが組織した一夕会(いっせきかい)
  に参加。1935年より軍事課高級課員。二・二六事件後の
  「粛軍」過程で頭角を現し、寺内寿一の政務幕僚として広
  田弘毅内閣の組閣に干渉した。1936年関東軍参謀に転
  出、謀略部隊の組織などに奔走した。1937年3月参謀本
  部作戦課長。盧溝橋事件の際には、強硬派の総帥として
  不拡大派の石原莞爾作戦部長を中央から追った。11月に
  は中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導した。1939
  年軍務局長、大戦中には近衛(このえ)師団長、第一四方
  面軍参謀長。昭和23年12月23日A級戦犯として刑死。
  出典:[山田 朗]コトバンク


 彼は「拡張派」の有力メンバーであり、対中国戦を直ちに拡大し、北中国だけでなく、青島や上海にも拡大すべきだと主張していた。 結局、武藤章らの意見が優先され、日本の侵略戦争はやがて中国全土に広がっていった。 また、武藤章は、中国への侵攻を拡大する計画を立てたことで参謀本部から褒められ、例外的に皇居での天皇陛下の訪問を許された。

 武藤章は、中国への侵略戦争を拡大するというアイデアを出しただけでなく、それを実践し、中国への侵略戦争拡大の先駆者となった。 「八月十三日事件」の後、日本軍は上海を攻撃したが、中国軍の頑強な抵抗に遭い、早期勝利という目標は達成できなかった。 そこで武藤章は、杭州湾に上陸するための兵を送ることを提案した。 彼の提案は受け入れられ、日本軍の上海攻略計画は成功した。 その助言が評価され、中部中国戦線の副参謀長に任命された。 1937年12月1日、日本の総司令部は彼の提案を採用し、南京攻撃の命令を下した。[58]


真実を知るために


最前線を視察する中国軍の将軍たち【59】。

 中国第二史料館の調査によると、南京大虐殺の後、国民党政府は南京大虐殺を公式に非難し、1937年12月から1938年3月にかけて、アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドン、日本の東京に人を派遣し、あらゆる方面から日本の南京大虐殺の真実を暴露した。 南京大虐殺の真実を明らかにするために1938年の早春に日本に派遣された秘密任務は、第二次世界大戦中に敵国の首都で行われたプロパガンダのユニークな例であった。

 国際宣伝部は上海などに秘密のスタッフを送り込み[60]、1938年初頭には、日本人自身が撮影した南京大虐殺やその他の残虐行為を記録した写真一式を「回し読み」して、武漢の本部に送り込んだ。[61]

 1938年3月、国際宣伝部は4人の国際的な友人を密かに組織して東京をはじめとする日本の各地に派遣し、東京の関係者や日本の関係者に様々な形で日本の残虐行為である南京大虐殺の真実を宣伝して暴露した。

 国際宣伝部の計画・手配によると、3人の日本人キリスト教徒は、英米の駐在員やジャーナリストが書いた南京大虐殺における日本軍の残虐行為に関する報道、記事、手紙、日記などの資料や、日本軍が自ら撮影した南京大虐殺における日本軍の残虐行為を記録した多数の写真セットを持参した。

 ミス・モレル・レスター女史は、アメリカ人宣教師フィッチから借りマギー牧師が密かに撮影した南京大虐殺における日本軍の残虐行為を記録した本のコピーを持参した。 ミス・モレル・レスターは、マギー牧師がアメリカ人宣教師フィッチから借りて密かに撮影した映画ドキュメンタリー「南京大虐殺の記録」のコピーも一式持っていた。

 上海から日本の東京に到着した国際交流員は、各国の大使館・領事館関係者や外国人ジャーナリスト、一部の政党・団体・企業・宗教などの間で、日本語と英語の文字で書かれた上記の宣伝物や写真の配布、上記の記録映画の上映、口頭での講演などを行った。

 戦後、日本の半官半民のテレビ局(
※注:NHK)が調べたところによると、当時、ジョン・マギーが作ったドキュメンタリー映画を見たことがある日本人はわずか7人だった。 その直後、モレル・レスター社は、このドキュメンタリーの上映を直ちに中止するよう勧告を受けた。[61] [62]

 国際宣伝部は、日本の将校や兵士が撮影したこれらの数々の惨殺写真を、南京大虐殺における日本の残虐行為の確固たる証拠として複製して広め、1938年7月に出版された天保理の英語の本「戦争は何を意味するのか 中国における日本の非道な行為(What War Means: Japanese Atroccities in China)」の中国語訳である「外人の目撃者に見る日本の残虐行為」という本の中で、書かれた記録との裏付けを取ったのである。[61]

 1938年6月中旬、国際宣伝部が翻訳を完成させ、中国語版のタイトルは「外国人の目撃する日本軍の残虐行為」となった。 国際宣伝部は、軍事委員会政治局第三部の部長を務めた著名な文化人である郭沫若を招き、中国語訳の序文を書かせたのである。
 国際研究委員会は、南京大虐殺を含む日本の中国侵略の残虐性を効果的に世界に暴露するために、著名な専門家である徐修喜氏を組織し、日本の中国侵略の残虐性を暴露する3冊の英語の本、「The Japanese Acts of War」、The Japanese Acts of War」、、「The Nanjing Safety Zone Archives、「The Nanjing Safety Zone Archives」を作成した。[61]

 1938年7月、中国国民政府軍事委員会政治部が編集・発行した『日本残虐行為実録』という絵本には、日本兵自身が撮影した写真が多数掲載されており、南京大虐殺の犯罪の証拠として発表された。[61]


南京大虐殺12につづく