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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


南京大虐殺 9

 原題:南京大屠杀
来源: 百度百科

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日
 

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南京大虐殺 8

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調査結果


日本人が行った残虐行為  切り落とした頭(顔)をもつ日本兵
日本の残虐行為 (20枚の写真)

 東京市ヶ谷の極東軍事裁判での証言で、ジョン・マギーとタンブルレインの両氏は、虐殺は南京の現場指揮官と東京の指揮官部の完全な知識と同意のもとに行われたと認定した。 さらにベデスは、「この7週間の混乱の中で、兵士たちの犯罪行為に対する罰はもちろん、誰かが懲戒処分を受けたという話は一度も見聞きしませんでした」と証言している。

 東京裁判で入手した前述の日本側の命令書によると、「戦争に参加した兵士を一人一人調べていくと、おそらく全員が殺人、強盗、強姦の犯罪人になっている」ということで、南京に入った20万人の日本軍兵士・将校は、上から下までほとんどが犯罪人であり、「南京大虐殺」の責任を負っていたことになる。

 南京大虐殺」の責任は大きい。 しかし、日本の軍隊はあらゆるレベルで管理され、あらゆる階級に従属しており、それは日本の敗戦まで続いた。

 「南京大虐殺」の命令の出所は、中国や外国の学者によって、1932年の上海事変の犯人の一人で、後に陸軍省軍務局長となった田中孝義少将が、1948年に東京の新文社から出版した著書『断絶された歴史-敗戦の秘話』の中で語った回想にあるとされている。

  1938年4月、朝香宮の指揮下で上海派遣の情報参謀を務めていた長与中佐(後に第74航空団に移籍して少佐に昇進)は、田中に「杭州湾に上陸した柳川隊の急進により、約30万人の中国人捕虜が殺された」と、陸軍司令官の名で捕虜の虐殺を命じたことを自慢した。

 中国兵は退路を断たれ、武器を残して投降してきた。 これだけ多くの囚人を抱えていると、食事が最大の問題となった。 私はすぐに、部下のすべての部隊に、これらの捕虜をすべて殺すように命令を出した。 軍司令官の名において、この命令を無線で送信した。

 命令の全文はすぐに焼かれた。 この命令の結果、大虐殺が始まったのである。 私たちは、田中と永代の言葉が信じられなかった。 一介の中佐が、上海派遣軍の司令官に代わって、しかも口頭で命令を出すなんて、組織化された規律ある軍隊ではありえないことだし、ましてや当時、世界で最も階級に従順だったと言っても過言ではない日本の軍隊ではありえないことだ。

 また、第16師団の砲兵観測隊長、澤田正久の証言によると、「捕虜の数は約1万人で、軍司令官に報告したところ、すぐに射殺するよう命じられた」という。 この命令は、上海派遣軍の参謀である飯沼守からのものだったようだが、澤田は、5ヵ月前に東京で飯沼の演説を聞いた時には、「囚人は大切に扱うべきだ」と言っていたのに、今は「すぐに射殺すべきだ」と言っていると、飯沼を批判した。

 隊長(チーフ・オブ・スタッフ)は、司令官(チーフ・オフィサー)に助言をしたり、日々の仕事を処理したりするスタッフの一員であり、何千人もの囚人の命に関わるような問題を扱う権限も勇気もない。 参謀長は、もちろん指揮官に代わって命令することはできるが、このような重要な問題を決定することはできない。

 陸軍司令官の朝香宮初彦王は天皇陛下の叔父であり、1937年12月2日、天皇陛下から松井石根(中支那戦線司令長官に昇格)の後任として上海派遣軍司令官に任命された。 また、第16師団第38翼の副官、児玉義雄の記憶によれば、「翼の第一線が南京城に1~2キロ近づいて、互いに乱闘している最中に、師団の副官が電話で『中国兵の降伏は受け入れられないので処分する』という師団からの命令だと言ってきた」という。 ......

 中島一茂師団長のこの命令がどうしても受け入れられず、何度も参謀本部や他の参謀に提案したが、同意を得ることができなかったので、私にも責任がある、と語っている。 [51]

 第38飛行隊長の助川静次少佐は、証言の中で「捕虜の虐殺の命令は師団長が出した」と述べている。中島今朝吾師団長は、1937年12月13日の日記で、「原則として捕虜を残さないという方針をとったので、すべての捕虜を処分(虐殺)することにしたが、佐々木部隊だけで約15,000人、太平門を守る第一戦隊長で約1,300人、現在、仙鶴門付近に集中しているもので約7,000~8,000人が処分されたことがわかっているし、捕虜はまだいる」と述べている。 彼らは降伏してくる。[52]


侵略日本軍による南京大虐殺の犠牲者を追悼するための記念館
南京大虐殺犠牲者記念館(写真18枚)

 12月14日、上海派遣軍第13師団の山田分遣隊(または第65分遣隊)は、南京の北東にある将軍塚付近で1万4千人の中国人捕虜を捕らえた。 山田少将の分遣隊が東京の軍司令部に報告されて処理方法を指示された後、軍司令部は3回指示を仰ぎ、3回目には「軍司令部の責任でやれ」との回答だったので、朝香宮司令官や師団長から「処分しろ」との指示が相次いだのである。 捕虜が動員されて殺されるのは、19日の朝になってからだった。

 南京大虐殺」で最も多くの人を殺したのは中島今朝吾の第16師団である。 次に多かったのが第6師団である。 第6師団は、杭州に上陸した第10軍の一部だった。 その司令官は、1936年の2月26日のクーデターを支えた3人の将軍の一人である柳川平助中将(1879~1945)であった。

 杭州湾上陸時のスピーチでは、「山も川も草も木もみんな敵だ」と言っていた。 陸軍の「陸軍参謀総長ノート」には、「中国民間人への注意」という項目があり、「中国北部、特に戦場の上海側では、多くの一般の中国民間人が、たとえ年寄りや女性、子供であっても、敵のスパイとして働いている。 そのような行為があったのだから、油断してはいけないし、特に後方の部隊には注意を払わなければならない。 そのような行為が発見された場合、それを容認してはならず、断固として対処しなければならない」。[53]

 柳川の第10軍に同行していた通信員は、柳川の連隊がこんなに早く攻撃してきたのは、「将校や部下の間で、略奪や強姦が自由にできるという暗黙の了解があった」と述べている。 柳川の第六師団は、その司令官である谷寿夫中将が、「南京大虐殺」で中国の軍事法廷で死刑判決を受けた最高の将軍であった。 彼自身が犯人だったのだ。

 谷寿夫は、第16師団長の中島と同様、自らサーベルで殺し、10人以上の中国人女性を強姦した。

 第6師団に同行していた写真家の河野広徳は、師団本部の上層部から伝えられた「共産主義者の暴虐は許されない、共産主義者の横暴を潰すために、農民や労働者、女子供も皆殺しにせよ」という命令を目にしていた。 師団が南京に入り、すぐに大虐殺を行ったのは当然のことである。 南京大虐殺」の際に日本軍の最高司令官を務めた松井石根大将は、戦後、「南京大虐殺」の罪で東条英機ら7人とともに東京裁判で絞首刑に処せられた。

 1937年12月7日、松井は「南京襲来」の戦闘命令を出した。守備側が平和的に開城しても、日本軍は入城後に個別に「掃討」しなければならない。 捕虜の問題については言及されなかった。 掃討」の名の下に、捕虜やはぐれ者(日本では「敗残兵」や「私服兵」と呼ばれた)だけでなく、民間人も虐殺されることがあった。

 南京陥落3日目(12月15日)、松井は「両軍(上海派遣軍と第10軍)は、それぞれの守備範囲にいる敗残兵を掃討し、隠し持っている武器や弾薬を回収して、戦場を掃討せよ」と、再び作戦指令を出した。「敗残兵を掃討する」というのは、捕虜やはぐれ者を虐殺することを意味していた。[54】 松井や師団長の「捕虜を取らない」「捕虜を射殺する」という命令は、「難民」であっても十分に明確なものであった。

 上海の日本総領事館は、日本人が南京で行った残虐行為の情報を得て、東京の外務省に報告していた。 1938年1月6日の日記で、外務省東アジア局長の石垣犬太郎は、「上海からの手紙には、南京で日本軍が行った残虐行為、略奪、強姦の詳細が書かれており、耐えがたいものがある」と書いている。 ウーパールーパー これが「帝国軍」なのか?" "これが「ジハード」と「帝国陸軍」の素顔だ!」 [55]

 日本の主要な問題の最終決定権は天皇にあった。 ヒロヒト(裕仁)は南京攻略を重要視し、陸軍省や内閣の主戦派が中国への侵略戦争を拡大するのを支援し、南京での戦争の進展を注視していたが、わずか10日前には叔父の朝香宮を上海派遣軍の司令官として派遣していたことは言うまでもない。

 翌年の2月26日、裕仁は自ら松井石根、朝香宮、柳川平助を呼び寄せて面会し、南京攻略の功績を称え、褒美として王菊をあしらった一対の銀瓶をそれぞれに贈っている。 南京大虐殺に対するヒロヒトの責任は、受賞した3人の現役戦犯の責任をはるかに超えていることは間違いない。[56]

 
※注)柳川 平助(1879年(明治12年)10月2日 - 1945年
  (昭和20年)1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。
  最終階級は陸軍中将で、司法大臣、国務大臣を歴任した。
  皇道派の重鎮でもあった。1937年に第二次上海事変で中
  国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第
  10軍が編成され、召集された柳川が第10軍司令官に補さ
  れた。柳川は杭州湾上陸作戦を成功させ、中国軍の退路
  を脅かし、上海攻略に貢献。更に参謀本部や上海派遣軍
  の意向を無視し独断で中国軍を追撃、南京攻略戦へと発
  展させる。


南京大虐殺10につづく