日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 南京大虐殺 4 原題:南京大屠杀 来源: 百度百科 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日 |
総合メニューへ 南京大虐殺 4 南京大虐殺1 南京大虐殺2 南京大虐殺3 南京大虐殺4 南京大虐殺5 南京大虐殺6 南京大虐殺7 南京大虐殺8 南京大虐殺9 南京大虐殺10 南京大虐殺11 南京大虐殺12 南京大虐殺13 大虐殺 南京大虐殺の主要な場所の地図[11] 約5万人の兵力と、軍規を守るジャンダルム(軍人)がわずか17人しかいない状態で入城した日本軍は、武装解除された軍人や警察官を中心とした中国人の大規模な「虐殺」を何度も行ったほか、南京の住民を個別に、あるいは小規模に、好きな時に好きな場所で殺害していった。 虐殺は、機械銃殺や大量の生き埋めなど、極めて残酷な方法で行われた。 12月15日(日本占領3日目):武器を捨てた3,000人以上の中国の軍人や警察官が漢中門に行進して機銃掃射され、その場で多くが死亡した。 12月15日の夜、魚雷収容所に連行された9,000人以上の中国の民間人や武装解除された中国兵が日本軍によって虐殺された。 また、宝田橋周辺では3万人以上の大虐殺が行われた。 中山北路の高射砲塹壕の近くで200人が射殺された。 12月16日(日本占領4日目):南京安全区にあった中国民宿に避難していた5,000人以上の中国人男女の難民が、日本軍によって中山埠頭に一斉に行進させられ、両手を後ろに縛られて整列させられた。 5,000人のうち、銃で撃たれて負傷し、長江の対岸まで泳いで死を免れたのは、白善栄と梁廷芳の2人だけだった。 日本軍は四条畷で400人以上、陰陽寮で100人以上の人々を虐殺した。 12月17日(日本軍占領5日目):3,000人以上の中国の民間人が日本軍によって石炭港(コールハーバー)の下流の川に連れて行かれ、一斉に銃殺される。 解放寺やサレジオ・ホームに避難していた400人以上の中国人難民が一斉に銃撃された。 南京大虐殺 南京大虐殺 (19枚の写真) 南京大虐殺 (19枚の写真) 南京大虐殺 (19枚の写真) 南京大虐殺 (19枚の写真) 南京大虐殺 (19枚の写真) 南京大虐殺 (19枚の写真) 12月18日(日本統治時代の6日目)の夜、下関の下ノ瀬峡谷。 南京を脱出して幕府山に収容されていた中国人難民の男女や子供たちは、数人を除いて鉛線で縛られて下ノ瀬渓谷に連れて行かれ、機関銃で撃たれ、血の池の中でまだうめき声を上げてもがく者は、ナイフで切り殺された。 その後、遺体はすべてパラフィンで焼却して破壊した。 ただ一人、呉昌徳(Wu Changde)だけが死なずに生き残った。 大方丈の難民地区では、4,000人以上の人々が日本軍に射殺された。 競争相手を殺す 南京大虐殺 "The Hundred Killings" 南京大虐殺の動かぬ証拠 出典:東京日日新聞(現・毎日新聞) 1937年12月13日、東京日日新聞(現・毎日新聞)は、2人の日本軍将校の「殺し合い」を報じた。 日本軍第16師団中島隊の2人の少尉、向井敏明と野田剛は、司令官に促されて「殺し合い」をし、南京が占領された時に100人殺した方が勝者となることで合意した。 12月10日の正午、紫山の麓で出会った二人は、すでにお互いの剣を切り合っていた。 野田は「105人殺した」、向井は「106人殺した」と言っていた。 誰が最初に100人を殺したかを決めることはできないので、このコンテストに勝者はなく、150人の中国人を全員殺したかどうかを新たにコンテストすることになった。 これらの残虐行為は新聞記事に掲載され、「帝国陸軍の英雄」と呼ばれた。 日本の降伏後、2人の戦犯は、戦時中に捕虜や非戦時要員を共同で継続的に虐殺したとして、「人類の裏切り者、文明の敵」として、最終的に南京で処刑された。 1946年2月、南京の中国軍事法廷は、日本軍が28件で19万人、858件で15万人を虐殺したと認定した。 日本軍は南京で6週間にわたる大虐殺を行い、30万人以上の中国の兵士や民間人が銃殺され、生き埋めにされました。 南京大虐殺5につづく |