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三陸海岸 津波被災地 現地調査
M生かされぬ教訓
2011年8月23日〜25日
青山貞一  東京都市大学 池田こみち 環境総合研究所
掲載月日:2011年8月28日
独立系メディア E−wave 無断転載禁

●特集:三陸海岸(岩手県南部・宮城県北部)津波被災地現地調査報告
@訪問被災地   H影響波高
A映像で見る津波被害ー1   I津波の力
B映像で見る津波被害ー2   J壊滅した釜石巨大堤防
C映像で見る津波被害ー3   K自然破壊
D釜石市知人インタビュー   L環境汚染
E過去の津波被害   M生かされぬ教訓
F生死の分かれ目   N復興に向けての提案ー1
G浸水域と神社   O復興に向けての提案ー2

 わずか3日間であるが、今回、東日本大震災・津波の中心地である三陸海岸の要所をつぶさに視察し、速報として本論考を執筆した。 

 以下の表は本稿の<過去の津波被害>の末尾に示したものだが、もとは市町村単位ではなく、膨大な集落(旧集落)単位における津波の波高、人的被害、移住等の普及状況をもとに集計している。

 それらの集計データを現在の市町村単位で再集計したものである。原典は主に「内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』」にある。

          
       調査対象地域別津波犠牲者比較(推計未了)


岩手県            
                  津波被害者数
              2011年         1896年(推定値)
            東日本大震災津波   明治三陸津波
----------------------------------------------------------------
  大槌町       1,450人       900人 ( Max8.85m, Ave5.67m)
  釜石市       1,180人      8,181人 (Max14.6m, Ave11.9m)
  大船渡市        449人      3,143人 (Max26.13m, Ave11.16m)
  陸前高田市     2,098人        845人 (Max32.6m, Ave8.5m)

宮城県           津波被害者数
              2011年        1896年(推定値)
            東日本大震災津波   明治三陸津波
----------------------------------------------------------------
  気仙沼市      1,411人     1,467人 (Max21.5m, Ave7.32m)
----------------------------------------------------------------
 合計         6,588人     14,536人

( )内は最高波高と平均波高

出典:東京都市大学青山貞一研究室、環境総合研究所(東京都品川区)

 上の総括表(調査対象地域別津波犠牲者比較)の信頼性に問題、たとえば明治三陸津波のデータの信憑性や東日本大震災・津波の行方不明者などに問題がないとは言えない。

 しかし、1896年(明治29年)の明治三陸地震(推定マグニチュードで8.2から8.5と推定されている)は、被害規模から見ると、東日本大震災・津波を上回る規模(犠牲者数で2倍以上)の犠牲者が出ていたことは明らかである。 また各集落における津波の波高及び市町村単位での平均波高も、東日本大震災・津波に類する値となっていることも分かる。

 明治三陸津波以降も、昭和三陸沖津波などが三陸海岸をおそったが、それらはいずれも明治三陸津波や東日本大震災・津波に比べると規模が小さい。

 以下に青山、池田の総括を示したい。

(1)東日本大震災・津波に際し、国、行政関係者、東電などの事業者、関連研究者らは、東日本大震災・津波を称し、1000年に一度の自然災害であるかの発言をしているが、それは事実に反するものであり、115年前に起きた明治三陸地震・津波に類するものであること。

(2)明治三陸地震・津波によって甚大な被害、犠牲者が出たにもかかわらず、その経験が教訓としてその後のまちづくりに十分生かされてこなかったこと。

(3)その背景には、1200億円の巨費を投じた釜石市の巨大湾口防波堤や同じく釜石市の小白浜海岸につくられた巨大なコンクリート堤防など、いわゆる土建公共事業的な対応、それも内務省、復興省、建設省、国土交通省、水産庁などの直轄あるいは補助による土建事業があったことは否めない。

(4)上記の土建公共事業とその効果の過大宣伝により、当該地域に住む住民らの心理として、あの巨大堤防があるから、あのコンクリート堤防があるから万が一の場合でも問題ない、また避難する意識が鈍った可能性も否定できないだろう。

(5)さらに実際、三陸海岸各地を現地調査して強く感じたのは、いずれの被災地も被害、犠牲者の圧倒的多くは当然のことながら、海水面と数mと違わない臨海部やその背後地の平場、さらに海に繋がる河川の下流、中流で起きていることである。

(6)これは言うまでもなく明治三陸津波以降、高台への移住があったとしても、それらの多くは個人移住、分散移住が中心であり、集団移住さらにはまちづくりレベルでの一括移住は多くなかったことがある。

(7)現地調査では、甚大な被害を受けたまちでも、(5)に示した以外の対応、すなわち浸水域より上(高台)に移住した住宅や施設は、甚大な被害を免れていた。浸水域は、当然のこととして地形などの要因、条件によりことなる。現在、現地ではこの浸水域が道路毎に明示されている。

(8)おそらく明治三陸津波発生後、各三陸地域では、高台など浸水地域を越える地域への個人単位あるいは集団での移転が行われたのであろうが、当然のこととして、その基礎となる財政基盤、資金が課題となる。また、一旦移転しても、漁業関係者などは、次第に海浜、海岸に関連施設を再移設したり、住宅を再移設してきた実態があるようだ。

 以下は、私たちが現地調査し、本稿で詳述した釜石市唐丹村小白浜における明治三陸津波発生後の経過である。出典は、明治大学 建築史・建築論研究室著の「三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」(文責:石榑督和)であるが、原典は以下である。原典は本文中に(C1934)などと文末に表記してある。
 
■文献略号  詳細は文献一覧を参照
○ C1934=内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』
○ K1961=建設省国土地理院『チリ地震津波調査報告書』
○ Y1943=山口弥一郎『津浪と村』
○ Y1964a,1964b,1965a,1965b,1966=山口弥一郎「津波常習地三陸海岸地域の集落移動」
○ C2010=中央防災会議『1960 チリ地震津波』

 以下の文中、グリーンとしたのは青山貞一。

★釜石市唐丹村小白浜


東日本大震災後の小白浜  出典:Google Map

「明治29年災害復興より現在に至る迄に經過は本文四中に述べたる處にして、既往に苦き經驗に鑑み、完全なる高地移轉の必要を痛感せるの地である。」(C1934)

「明治29年三陸津浪に依る小白濱部落に於ける人命の被害500〜600人、家屋の被害戸數120〜130戸にして、家屋の流失、倒壞面積24800坪に及び全滅に歸せり。之が復興に當り部落民は災害義捐金を以て畑地を買收し、自力[村としては干渉せず]を以て海岸より約200m後退せる高地に移轉せしも、海岸との連絡道路其他の施設を完備するに至らざりし爲め、一且高地に移轉したる部落民中漁業を生業とする人々は日常の業務に多大の不便を感じ、漸次舊位置に下る傾向を生じたり、過々大正12年9月1日山火事に逢ひ、高地にある住宅は灰燼に歸し、高地住宅の大半は舊低地に再び移り住みたる」(C1934)

「此の外明治29年津浪災害後、同村花露邊部落にありては約10戸、片岸部落にありては約5戸の自力高地移轉ありて今日に及び、今囘の津流に何等の被害を受けず。」(C1934)

「小白浜は明治29年の激災後当時村役場の収入役をしていた小崎善造、区長の小野富十郎、磯崎富衛門氏等が主となって相謀り、義捐金3000圓の全部を当てて裏の山腹の秦を買収し、湾頭を走っていた道路の一部を移し、その両側に一戸当たり50坪を割り当てて約100戸を移動せしめた。高地で飲料水を得るには不便であったが、澤の水をとって2箇所に貯水して各所より汲取に集まっていた。当時としては先覚者の努力により多くの戸数を実に見事に移転せしめたのは大成功と言うべきである。然し一部の漁夫は濱に出るより不便より仮屋に居着いて終い、新たに分家したり、他より來往した人々も先ず濱に占居するので、一時は海岸は漁師町、高地は移転した新商店街の如き觀も呈して居ったと言う。商店の相手は背後に農村とてもたぬこの山深い湾頭に於いては、漁家をのみ求める外ない。それで高地の本宅はそのままにして、濱の元屋敷に別に家を建て商業を始める人々等が出来、漸次原地に戻る傾向を生じていた。」(Y1943/p.45)

「唐丹村子白濱の如きも結局2箇所に分れて集團移動する事になっている。」(Y1943/p.137)

明治29年の移動の行われた村々は、何れも私財を投じてまで移動を断行しようとする程の熱意ある1、2の先覺者を持ったものに限られる。何時の世にもかかる人の問題が自然的諸條件をよく克服しているのを知るのである。ここにはその2、3の例を引用したに過ぎないが、唐丹村本郷の山崎鶴松氏、同小白濱の山崎善造、小野富十郎、磯島富衛門の3氏、吉濱村本郷の新沼武佐衛門氏、船越村船越の佐々木興七氏、廣田村泊港の佐々木代三郎氏等を擧げることが出来、災害の救済に献身した人々と共に、此等の人々の顕彰も忘れてはならぬと思ふ。」(Y1943/p.138)

唐丹小白浜は明治29年波高14.60mで、流失倒壊50戸を越え、約120人の死者を出す大被害を受けた。そこで、部落では200m背後の山麓に義損金を利用して宅地造成を行い移動したが、海岸への道路も不完全であり、漁業者は逐次元屋敷に復帰してきた。また、大正12年9月1日の山火事のため、高地住宅は灰燼に帰したため、高地住宅の大半は危険な低地に復帰した。」(K1961/p.68)

「海岸より約200m離れた高地へ移ったが、1927年4月の山火事にあい、その復興の際は、津波の災害の記憶も薄くなった頃であるから、山麓の山林に接して山火事におそわれるよりはと、津波前の浜近い原位置へ下りた。」(Y1966/p.158)

「170戸中漁業125戸に対して農業5であるが、他に商業20、工業5等を含み、三陸海岸の漁村としては大きい方で、やや複雑な構成である。漁業は刺網、延繩、定置漁業が主であり、鰮の漁獲量が最も多い。1896年海岸より200m離して、1戸平均50坪の地割りをし、商店街も共に移動したが、これでも移動距離がやや大で、かつ海岸との連絡路が不十分で、その後の移入者の原集落位置への居住、火事等の原因もあって原地復帰となった。」(Y1966/p.160)

「[大漁の好景気の]機会に原地復帰している。」(Y1966/p.163)

1913年4月五葉山麓の山火事がひろがってきて、1896年の津波で山麓に移動し、山林に接して建設されていた集落がその類焼に会い、再び全滅した。浜に下りれば津波に、山麓に移れば山火事にと、リアス式湾頭は背後に山地がせまり、湾頭に低地が少ないため、集落定住の場所なき観がある。火災直後の仮居住の納屋で、これが原地復帰の誘因となって、1933年再び大災害をうけることになった。」(Y1966/p.163)

  上記の記述は 先に示した原典を基にしているが、原典がことなる記述に共通しているのは、明治三陸津波以降、一旦、200mほど山側離れた高台に有志及び各世帯が出費して、移住したものの、漁師らが不便を感じ、次第にもとの低地に移ってきたことである。

 もちろん、移転先の高台で山火事が起きたことも低地に再移住した要因ではあるが、再移住の大きな誘因は、漁師にとって200mという移住距離が大きく感じられたことにあるとされる。

 ここでは釜石市の小白浜を事例としただけであるが、おそらく膨大な数ある三陸海岸の中小規模の漁村集落では、ほぼ同じ状況にあったものと思える。

 すなわち高台への移住という教訓は、十分に生かされなかったのである。

 では、今回、東日本津波被害の中心となった大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の中心市街地は、どうであろうか?

 これらの中心市街地は、漁村集落とはさまざまな意味で異なる。これらの地域は山が海に迫る三陸のリアス式海岸に残された数少ない低地であり、それぞれ海浜、入り江に面している。

 そこに地方都市の機能である行政機能、商業流通機能、生産機能、教育機関などの地方都市機能を集中的に立地してきた。

 数万人規模の地方都市の中核そして中心市街地をリアス式海岸に残された数少ない低地であり、それぞれ海浜、入り江に設けることは、明治三陸津波の教訓を真摯に受け止めるとすれば、今回、現地で見た津波に対する物理的な構造としては、きわめて不備であったと言わざるを得ない。

  他方、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の中心市街地は、いずれも奥まった湾の奥、すなわち湾奥にある。

 物理現象として津波が浅い海岸に達すると、津波の速度は遅くなり、波高は高くなる。外洋では津波の波高は数十cmから2mか3m程度であり、波長は100kmを越えるので、海面の変化はきわめて小さい。

出典:Wikipedia
 
津波が陸地に接近して水深が浅くなると速度が落ちて波長が短くなるため、波高は大きくなるが、通常は、単に水深が小さくなっただけでは極端に大きな波にはならない。

 津波の波高は水深の4乗根と水路幅の2乗根に反比例するので、仮に水深160m、幅900mの湾口に高さ1mの津波が押し寄せ、湾内の水深10m、幅100mの所に達した場合、波高は水深の減少で2倍、水路幅の減少で3倍になるため、総合すると波高は6mになる。そのため、V字型に開いた湾の奥では大きな波高になりやすい。

 地形面から見ると、リアス式海岸のような複雑に入り組んだ地形の所では、局地的に非常に高い波が起きやすいが入り組んだ入り江にある中小の漁港、漁村など湾奥にあればあるほど、波高は高くなる。

 大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の中心市街地も、いずれも複雑に入り組んだ湾奥に面している。

 リアス式海岸の湾奥では上記のように、地形的に見ていずれも津波の波高は高くなり、陸での津波の速度は速くなり、津波の力は大きくなるのである。事実、明治三陸津波では、以下のように最高値、平均値ともに津波の波高は高い。

  大槌町       Max8.85m    Ave5.67m
  釜石市       Max14.6m   Ave11.9m
  大船渡市      Max26.13m   Ave11.16m
  陸前高田市     Max32.6m    Ave8.5m
  気仙沼市     Max21.5m    Ave7.32m

 にもかかわず、最低でも数千名が居住する中心市街地が、リアス式海岸の湾奥の低地に「堂々」と造られてきたのである。私たちは今回の調査で大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市のどの中心市街地も湾奥の最も低地に展開されていることを確認している。

 しかも湾奥内に漁港など港に数mの防波堤はあるものの、中心市街地との間には3−4mの堤防があるのみであったことも特筆すべきことであった。下の写真は大槌町の臨港防波堤である。高さはせいぜい4m、それも部分的に破壊されていた。

 
大槌町の臨港防波堤
撮影:青山貞一、 2011.8.24

 これでは明治三陸津波の教訓がまったく生かされていなかったも同然である。おそらく漁業が盛んな三陸の各地では、湾奥の中心市街地は、漁業を優先、すなわち港に係留している漁船へのアクセスを優先し、どこでもこのような状況になっていたことが想像に難くない。

 膨大な費用をかけて構築した鉄とコンクリートによる土木技術が、原発同様、安全神話を地域に蔓延させた結果と言えないだろうか。所詮、人間のつくる技術や構造物は自然の威力には遠くかなわないものだという自然に対する真摯な気持ちが失われてたまち作りを反省しなければ、また同じ悲劇が繰り返されるだろう。


つづく