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わずか3日間であるが、今回、東日本大震災・津波の中心地である三陸海岸の要所をつぶさに視察し、速報として本論考を執筆した。 以下の表は本稿の<過去の津波被害>の末尾に示したものだが、もとは市町村単位ではなく、膨大な集落(旧集落)単位における津波の波高、人的被害、移住等の普及状況をもとに集計している。 それらの集計データを現在の市町村単位で再集計したものである。原典は主に「内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』」にある。
上の総括表(調査対象地域別津波犠牲者比較)の信頼性に問題、たとえば明治三陸津波のデータの信憑性や東日本大震災・津波の行方不明者などに問題がないとは言えない。 しかし、1896年(明治29年)の明治三陸地震(推定マグニチュードで8.2から8.5と推定されている)は、被害規模から見ると、東日本大震災・津波を上回る規模(犠牲者数で2倍以上)の犠牲者が出ていたことは明らかである。 また各集落における津波の波高及び市町村単位での平均波高も、東日本大震災・津波に類する値となっていることも分かる。 明治三陸津波以降も、昭和三陸沖津波などが三陸海岸をおそったが、それらはいずれも明治三陸津波や東日本大震災・津波に比べると規模が小さい。 以下に青山、池田の総括を示したい。 (1)東日本大震災・津波に際し、国、行政関係者、東電などの事業者、関連研究者らは、東日本大震災・津波を称し、1000年に一度の自然災害であるかの発言をしているが、それは事実に反するものであり、115年前に起きた明治三陸地震・津波に類するものであること。 (2)明治三陸地震・津波によって甚大な被害、犠牲者が出たにもかかわらず、その経験が教訓としてその後のまちづくりに十分生かされてこなかったこと。 (3)その背景には、1200億円の巨費を投じた釜石市の巨大湾口防波堤や同じく釜石市の小白浜海岸につくられた巨大なコンクリート堤防など、いわゆる土建公共事業的な対応、それも内務省、復興省、建設省、国土交通省、水産庁などの直轄あるいは補助による土建事業があったことは否めない。 (4)上記の土建公共事業とその効果の過大宣伝により、当該地域に住む住民らの心理として、あの巨大堤防があるから、あのコンクリート堤防があるから万が一の場合でも問題ない、また避難する意識が鈍った可能性も否定できないだろう。 (5)さらに実際、三陸海岸各地を現地調査して強く感じたのは、いずれの被災地も被害、犠牲者の圧倒的多くは当然のことながら、海水面と数mと違わない臨海部やその背後地の平場、さらに海に繋がる河川の下流、中流で起きていることである。 (6)これは言うまでもなく明治三陸津波以降、高台への移住があったとしても、それらの多くは個人移住、分散移住が中心であり、集団移住さらにはまちづくりレベルでの一括移住は多くなかったことがある。 (7)現地調査では、甚大な被害を受けたまちでも、(5)に示した以外の対応、すなわち浸水域より上(高台)に移住した住宅や施設は、甚大な被害を免れていた。浸水域は、当然のこととして地形などの要因、条件によりことなる。現在、現地ではこの浸水域が道路毎に明示されている。 (8)おそらく明治三陸津波発生後、各三陸地域では、高台など浸水地域を越える地域への個人単位あるいは集団での移転が行われたのであろうが、当然のこととして、その基礎となる財政基盤、資金が課題となる。また、一旦移転しても、漁業関係者などは、次第に海浜、海岸に関連施設を再移設したり、住宅を再移設してきた実態があるようだ。 以下は、私たちが現地調査し、本稿で詳述した釜石市唐丹村小白浜における明治三陸津波発生後の経過である。出典は、明治大学 建築史・建築論研究室著の「三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」(文責:石榑督和)であるが、原典は以下である。原典は本文中に(C1934)などと文末に表記してある。 ■文献略号 詳細は文献一覧を参照 ○ C1934=内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』 ○ K1961=建設省国土地理院『チリ地震津波調査報告書』 ○ Y1943=山口弥一郎『津浪と村』 ○ Y1964a,1964b,1965a,1965b,1966=山口弥一郎「津波常習地三陸海岸地域の集落移動」 ○ C2010=中央防災会議『1960 チリ地震津波』 以下の文中、グリーンとしたのは青山貞一。
上記の記述は 先に示した原典を基にしているが、原典がことなる記述に共通しているのは、明治三陸津波以降、一旦、200mほど山側離れた高台に有志及び各世帯が出費して、移住したものの、漁師らが不便を感じ、次第にもとの低地に移ってきたことである。 もちろん、移転先の高台で山火事が起きたことも低地に再移住した要因ではあるが、再移住の大きな誘因は、漁師にとって200mという移住距離が大きく感じられたことにあるとされる。 ここでは釜石市の小白浜を事例としただけであるが、おそらく膨大な数ある三陸海岸の中小規模の漁村集落では、ほぼ同じ状況にあったものと思える。 すなわち高台への移住という教訓は、十分に生かされなかったのである。 では、今回、東日本津波被害の中心となった大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の中心市街地は、どうであろうか? これらの中心市街地は、漁村集落とはさまざまな意味で異なる。これらの地域は山が海に迫る三陸のリアス式海岸に残された数少ない低地であり、それぞれ海浜、入り江に面している。 そこに地方都市の機能である行政機能、商業流通機能、生産機能、教育機関などの地方都市機能を集中的に立地してきた。 数万人規模の地方都市の中核そして中心市街地をリアス式海岸に残された数少ない低地であり、それぞれ海浜、入り江に設けることは、明治三陸津波の教訓を真摯に受け止めるとすれば、今回、現地で見た津波に対する物理的な構造としては、きわめて不備であったと言わざるを得ない。 他方、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の中心市街地は、いずれも奥まった湾の奥、すなわち湾奥にある。 物理現象として津波が浅い海岸に達すると、津波の速度は遅くなり、波高は高くなる。外洋では津波の波高は数十cmから2mか3m程度であり、波長は100kmを越えるので、海面の変化はきわめて小さい。 |