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前半 後半 全体 ■2009年3月8日 終日ワルシャワ視察 ●北ワルシャワの要塞・大監獄(1) ・ワルシャワ市街北端にある要塞→ツィタデラ(大監獄要塞)跡 ワルシャワの新市街を北に向かって歩くと造幣局にでた。 私達が北に向かったのは、「ツィタデラ」を視察するためだ。 実は、ワルシャワには町並み修復や復元問題以外に、帝政ロシア、ドイツ軍、ナチス・ドイツなどにより市民らが強制収容され犠牲となった要塞、刑務所、強制収容所などがあり、そこで多くの市民等が犠牲となっている。 今回の現地調査のもうひとつの目的は、それらの強制収容所、要塞、監獄、刑務所などを実態を見ることにある。 ポーランドで強制収容所と言えば、すぐにアウシュビッツ強制収容所を想起する。確かにアウシュビッツは世界的に有名だが、ポーランドにはナチス・ドイツがつくった20カ所以上の強制収容所がある。そのうちのいくつかはにはガス室、人体焼却炉を備えており、ユダヤ人はじめ多くの人々が犠牲になった。 他方、この北ワルシャワの「ツィタデラ」のように、もともと帝政ロシアがワルシャワ市民の独立に向けての一斉蜂起やロシア革命を画策する者を逮捕し、留置、処刑するための刑務所や監獄が各地にある。 北ワルシャワの施設は当初、「ツィタデラ」としてつくられ、その後大監獄・刑務所・処刑施設となっている。ちなみに「ツィタデラ」は英語で「シタデル」(Citadel)、つまり要塞である。 このように今回の現地視察では、ナチス・ドイツによるアウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクといった大規模な強制収容所とは別に、それに準ずる形で使われた要塞、監獄、刑務所も、時間が許す可能な範囲で視察することにしていた。 しかし、これらの施設は来てみないとその存在が分からないものが多く、しかも春から秋は施設が開放されていても、冬場は閉鎖されている施設、博物館があるなど、現地に来てはじめて分かることも多かった。 ・ワルシャワ市街北端ツィタデラ刑務所の第10号棟視察 ところでワルシャワの新市街地の北の端にある造幣局からさらに北に向かうと、公園らしきものがあった。その一画に下の写真にあるような要塞らしきものがあった。 ただ、この要塞らしき施設は東京から持参した「地球の歩き方」や現地でもらった地図・資料にも記載がなく、施設の名もないのである。
私達は要塞らしき施設をグル〜と周る。写真にある赤い自動車があったので、誰かが中にいるはずだ。そこで上の写真左で入り口とおぼしき場所で呼び鈴を押す。返事があることはあったが、ポーランド語なのでさっぱり分からない。もう一度押す。結局、誰も出てこなかった。 再度、地図を見る。どうもここは目的としていた「ツィタデラ」ではないようだ。当初考えていた「ツィタデラ」の位置はもっと北で川沿のはずだ。 仕方なく一旦、雪が積もる小さな丘を降り、ヴィスワ川側に出て川と平行に走る幹線道路沿いを北上するとヴィスワ川にかかる大きな鉄橋に出会う。
この大きな橋を過ぎるあたりから、今度は間違いなく「ツィタデラ」の煉瓦造りの壁が見えてきた(下の写真)。
レンガづくりの構造物を横に見ながらさらに北進すると、「ツィタデラ」に通ずる門が見えてきた(下の写真)。今度は間違いない。幸い冬なので樹木の葉がすべて落ちていたの施設がよく見えたが、夏だと見えにくいだろう。
途中以下の案内板に出会う。 間違いなく北ワルシャワの「ツィタデラ」である。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8 ●北ワルシャワのツィタデラ(要塞) 早朝にホテルを出てここまで徒歩で来たが、ワルシャワ中央駅からの直線距離は3km以上、実際に歩いた距離は旧市街などをあちこち視察したので5km以上もあり結構疲れた。 「ツィタデラ」の門をくぐり、少し進むと下の写真(左)の入り口があった。この入り口こそワルシャワ市民の悲惨を伝える「死の門」と恐れられてきた門だ。この門をくぐると2度と戻れないのだろう。まさにアウシュビッツと同じだ。
北ワルシャワのツタディラ(大監獄)の死の門 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8 ここで「ツィタデラ」について少し説明を加えておこう。 私はポーランドの歴史を知るのところで以下のように書いた。 1830年、フランス革命に呼応しポーランドの民衆に独立の気運が高まる。同年11月に蜂起が起こり9ヶ月継続するも敗北。以降、ポーランドのロシア化が強化されロシア帝国(ロマノフ朝)に併合される。1863年1月に反ロシア蜂起が起こる。ロシア領ポーランドで農奴解放令が布告され、独立運動は沈静化する。 上記のように1830年から9ヶ月間、帝政ロシア(ロマノフ朝)の圧政に抗議しワルシャワ市民の反乱が勃発した。これにおどろいた帝政ロシアの皇帝ニコライ1世は1832年から2年間で北ワルシャワにこの「ツィタデラ」をつくった。この時期、ポーランドは帝政ロシアの属領化が進められていた。 そのなかで「ツィタデラ」は、ワルシャワ市民の反ロシア活動を監視し、独立活動を抑圧するための拠点であったわけだ。実際、「ツィタデラ」にはワルシャワ市街に向け最大550門もの大砲があり、1万6千人ものロシア兵がワルシャワ市民らの反乱、蜂起に備え駐留したという。 今でも残るワルシャワ市街に向けられた帝政ロシアの大砲 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8 この北ワルシャワの「ツィタデラ」には、政治犯などを強制収容する監獄バラックが84も併設された。そのうちのひとつに第10号棟があり、延べ4万人もの政治犯などが投獄されたというからすごい。 現在、この「ツィタデラ」の一部第10号棟監獄跡は、第10号監獄跡博物館(Muzeum X Pawilonu)として一般公開されている。 この「ツィタデラ」の大監獄(強制収容所)には政治犯にとどまらず、上記の歴史記述の最後にあるように1863年に起きた1月蜂起(Uprising)の参加者、ロシア革命論者、ポーランド労働党インなども強制収容されている。 また第1次世界大戦の最中はドイツ軍がこの大監獄にポーランド労働者などを強制収容していた。 私は韓国ソウルにある西大門刑務所(監獄)博物館によくでかけるが、北ワルシャワの「ツィタデラ」は、まさに西大門刑務所に類する施設である。西大門刑務所同様、この「ツィタデラ」では市民らを収容するだけでなく、政治犯を拷問にかけ、簡易裁判により死刑判決し、処刑する施設もあったようだ。 ソウルに日本軍がつくった西大門刑務所では、治安維持法で逮捕され犠牲となったひとびとの写真や逮捕、起訴状の現物が展示されていたが、北ワルシャワの「ツィタデラ」では、政治犯などの起訴状、写真、当時の新聞記事、収容された人々の遺留品などが展示されていた。 それにつけても、「ツィタデラ」の第10号監獄跡博物館(Muzeum X Pawilonu)を視察するだけで、ポーランドの国民は世界のありとあらゆる理不尽、悲惨、悲劇、圧政、弾圧、さらには拷問、虐殺を一手にかかえてきたことがよく分かるはずだ。 ●第10号監獄跡博物館(Muzeum X Pawilonu) 死の門をくぐり中に入る。 10号棟への案内があるわけではないが、下の写真右にある道をひたすら歩く。私達が「ツィタデラ」に行ったのは日曜日の午後だが、私達以外に訪問者はひとりもおらず、いやがおうにも不気味さ高まる。
道を数分歩くと、下の建物に出会う。 これが「ツィタデラ」の第10号監獄跡博物館(Muzeum X Pawilonu)である。監獄あるいは強制収容所をそのまま保存し博物館としていた。
施設をザット見渡す。どうみても特段入り口があるわけでない。 よく見ると10号棟との一部に下のような看板(サイン)があった。自分でドアを開け中に入る。これも少々不気味。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8 ドアを開けて入るが何と照明もない。突き当たりに受付らしき場所がある。 そのうち男性がでてきて順路を指し示してくれた。 この博物館の入館料は、後に行くアウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクなどと同様、無料であった。おそらく国家として国民、市民、外国人に是非とも見てもらいたい場所、施設なのであろう。 以下は、帰国してからグーグルマップで調べた「ツィタデラ」の位置である。衛星画像からは確かにヴィスワ川の河畔で幹線道路(国道7号線)のきわにあることが分かった。 グーグルマップで見た北ワルシャワの「ツィタデラ」 なお、造幣局がある交差点の北にあった施設は、以下のグーグルマップにあるように別の「ツィタデラ」、すなわち要塞であることも分かった。グーグルマップには、Fort Leginowとある。Fortは言うまでもなく英語のFortress、すなわち要塞である。 グーグルマップで見た北ワルシャワの最初に出会った「ツィタデラ」 つづく |