忍城の行田探訪 忍城と城下町 青山貞一 池田こみち Nov 25 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
一通り、博物館内を視察後、私たちは外から忍城を視察することにしました。 下は鐘楼です。鐘はレプリカで、本物は博物館に展示されています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 これは忍城のすぐ隣にあるお濠を渡った位置から忍城の門と橋を撮影した写真です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 ところで、以前、秩父市の住民からも聞いていたのですが、埼玉県行田市には、豊臣秀吉の命を受けた石田三成ら2万人の軍勢が、わずか500人の侍や足軽、それに農民ら2000人が城に籠城し、最終的に石田三成らを追い返したことで有名な忍城に行ってきました。 この9月上旬、福井県敦賀市にあります日本原子力研究開発機構の「ふげん」と「もんじゅ」を現地視察する前、滋賀県長浜市の石田町にあります石田三成生誕地に行きましたが、石田会館にあった資料にも、その忍城の一件がありました。 撮影:池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-9-7 この豊臣秀吉の忍城攻めは、石田三成が総大将のほか、石田三成の盟友で関ヶ原の戦いで亡くなった大谷吉継や長束正家、さらにあの真田昌幸、信繁父子らも加わっていたそうです。 真田昌幸、信繁父子が徳川家康の巨軍を二度にわたり、わずか2000人そこそこで2度にわたり破った話は有名ですが、それ以前に、今日出かけた忍城でも、10分の1以下で豊臣秀吉の巨軍を守ったことで知る人ぞ知る城だったのです。 下は忍城の外観です。城は再建されたものです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 出典:行田市郷土博物館パンフ 以下は戦国・安土桃山時代、また江戸時代の忍城についての概要です。 ◆戦国時代・安土桃山時代 1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれています。 翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有しました。河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばしますが、成田氏はこれに反発しました。 1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順しました。 1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加しています(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反し、1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれましたが、持ちこたえています。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城しています。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもっています(忍城の戦い)。 豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸、信繁父子らも加わっていました。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しました。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となりました。このことが、忍の浮き城という別名の由来となっています。 ◆江戸時代 徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置されます。以後、忍藩10万石の政庁となりました。 1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは1702年(元禄15年)頃に完成したと考えられています。 1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入りました。 忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄します。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 なお、以下は入場時にいただいたパンフレットにみる忍城と城下町です。 ◆忍城と城下町 忍城の城下町は、東に鳥のくちばしのように伸びた形をしており、城の外郭防衛線の中に、町家や武家屋敷が配置されていました。 城下町は各時代に拡張整備されてきましたが、特に阿部忠秋が忍城に移ると、忍城の大改築が始められ、孫の正武の代、元禄15年(1702)頃になりようやく完成したと言われます。 享保年間(280年ほど前)頃の灯明縮図によれば、忍城大改築のため大工などの建設関係の職人さんの多い町でした。 天保・弘化頃(約170年ほど前)の町明細図では、約1割が足袋関係の職業で、この時からすでに足袋の町であったことを知ることができます。 ▲増補忍名所図書 文政6年(1823)、伊勢桑名の松平氏が忍城に移り、新しい領地である忍の名所図を家臣の岩崎 長容に増補させたのが本書です。 原本は、天保年間の増補で、考古、名勝、旧跡、古刹、風俗などが絶妙の筆致で描かれ、当時の行田を偲ばせる唯一の風土記です。 出典:行田市郷土博物館パンフより ▲呉服屋 この絵馬は、東松山の箭弓神社に奉納されているものですが、描かれている店は行田の呉服屋田清兵衛商店です。 ここに描かれる店は現在でも菓子の店として使用しています。 出典:行田市郷土博物館パンフより ▲忍城鳥瞰図 明治6(1873)年に作成された原図を昭和10年(1935)に印刷・発行した城絵図です。忍城を南側から俯瞰し、中央やや左よりに三階櫓が描かれています。 広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されてます。また、本丸や諏訪曲輪は鬱蒼とした森となっています。 出典:行田市郷土博物館パンフより つづく |