忍城の行田探訪 行田市郷土博物館 近世の行田 (江戸時代) 青山貞一 池田こみち Nov 25 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
◆近世の行田 江戸時代に入ると、忍城は忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名やその親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなど、城郭改修や城下町の整備が行われました。 出典:行田市郷土博物館パンフより 忍城が家康の持ち城となった天正18年、松平家忠が派遣され、水攻めで傷んだ城の修復をします。修復後の天正20年、家康の四男忠吉が入城。関ケ原合戦後に尾張国城主に移ります。 忍城にはその後城番が置かれ、周辺の河川改修や農業開発が積極的に進められました。 寛永10年(T633)に松平信綱が城主となり、同16年には、阿部忠秋が移り、以後184年間、阿部氏の時代が続きます。 文政6年(1823)、伊勢の桑名から松平氏が移封し、48年あまりで明治を迎えます。 戊辰戦争の戦火を逃れた忍城でしたが、明治6年、主な建物は競売に付され、かつての面影は土塁を残すのみとなりました。 ▲寛政年間忍城図 阿部忠秋から始められた忍城の大改築により、城と城下町の整備が進みました。沼や深田などの天然の要害を利用した城から、櫓や白壁の塀を持つ城へと変りました。 出典:行田市郷土博物館パンフより ▲忍城模型 幕末頃の資料により作成した模型。天然の沼地を巧みに利用した城で、各郭は橋で結ばれていました。これらの建物は、明治6年に一般に払い下げられました。 出典:行田市郷土博物館パンフより ◆徳川家康 忍城東照宮に伝わる家康画像です。 注:忍城東照宮は、忍城のすぐわきにありましたが、何度か車でまわりましたが、 入り口が見つからず今回は断念しました。 この画像は、長女亀姫が奥平家に嫁ぐ時持っていったものとの言い伝えがあります。亀姫の四男忠明の分家独立した家が、忍城最後の城主松平氏になります。 出典:行田市郷土博物館パンフより ◆松平忠明 松平忠明は家康の孫にあたります。豊臣滅亡後の大坂の復興に尽力。のちに姫路城に移り西国の押えとなり、忍城最後の城主松平氏の祖となりました。 出典:行田市郷土博物館パンフより ◆松平忠明着用具足 全体的に戦国時代末期の特色を良く残しています。 この具足には、忠明が、大坂夏の陣で着用したとの言い伝えが残されています。 出典:行田市郷土博物館パンフより 下は甲冑です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 下は忍城の御殿・屋敷の模型です。多くの部屋があることが分かります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 忍城の歴史の部分には、会津藩の日進館、真田藩の文武学校(松代)、さらに栃木の足利学校などと同じように忍藩の学校、進侑館をつくり、人材の育成に尽くしていたとありました。下はその看板と復元模型図です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-10-15 忍城は、明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されましたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されています。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されています。 つづく |