エントランスへはここをクリック   

忍城の行田探訪

行田市郷土博物館

中世の行田

(戦国・安土桃山時代)

青山貞一  池田こみち 
Nov 25 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
忍城の行田探訪(埼玉県行田市)
@ 行田市へ A 戦国時代 B 江戸時代 C 明治〜昭和以降 D 行田の足袋
E 城内展示 F 忍城 G 水城公園 H 成就院三重塔 I 古代蓮の里

 食事後、まずは行田市郷土博物館に向かいます。

 ところで、行田の町全体は地形的にまったくの平地です。もともと忍城周辺は湿地帯だったそうです。行田には、要所に歴史的な街並みが一部ではあれ残されており大変落ち着いた街でした。
,
 私達はその昔、騎西町という小さな町の環境基本計画を仕事で依頼され、何度も行っていましたが、行田市はそのすぐ隣でした。騎西町にも城がありました。現在、騎西町は合併で加須市の一部となっています。長野県の真田町は、現在、上田市と合併していますが、このような歴史的に由緒あるまちが合併により地名が埋没してしまうのは非常に残念です。

 行田市の忍城には行田市郷土博物館が併設されており、一旦入場しても博物館と忍城の両方を行ったり来たり出来ます。入場料は大人一人200円、これで行田の歴史文化が楽しめます。なお、行田市郷土博物館には無料駐車場があります。

 下は行田市郷土博物館の玄関です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

 下は行田市郷土博物館の入場券です。




 行田市郷土博物館は大別して、@忍城及びその藩主(城主)に関連する部分、A行田の主要産業である足袋の歴史に関する部分、そしてB再建された忍城の御三階櫓の下部から最上部にある展示mp部分の3つがあります。

 まず@忍城に関連する歴史の部分です。

 忍城は、室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられています。なお、以下は歴代忍城主の家紋です。

 上から下へ、成田氏、大河内松平氏、阿部氏、東条松平氏、奥平松平氏となります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

 以下は入館時に頂いたパンフにある中世の行田です。

◆中世の行田


出典:行田市郷土博物館パンフ

 貴族の世から武士の世に代わり戦国時代の動乱を経て、豊臣秀吉による天下統一までの時代です。この激しい時代の歴史の担い手として、行田および周辺の武蔵武士の活躍が記録に残されています。彼らの中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、のちに忍城を築城することになります。

 忍城は、文明11年(1479)頃までには成田氏により築城され、以後約百年にわたり成田氏の支配する時代になりました。天正18年(1590)、秀吉と小田原北条氏との戦いの中で石田三成らによる水攻めを受けます。

 この戦いにより忍城は開城し、成田氏百年の支配が終り、関東に入国した徳川家康の持ち城となりました。

◆足利成氏書状

 この書状の中に、忍城・成田と出てくることにより、忍城が文明士1年(1479)にはもう築城されており、城主が成田氏であることがはっきりしました。


出典:行田市郷土博物館パンフより


◆成田氏長判物

 氏長による家臣の栗原大学への知行地の宛行状です。この氏長の代に、秀吉による小田原北条氏攻めがあり、当時北条氏に味方していた忍城も石田三成らの秀吉方に水攻めされました。この戦いの後、忍城は関東に入国した家康の持ち城となりました。


出典:行田市郷土博物館パンフより


◆天正年間忍城図

 永正6年(1509)に、忍城を訪ねた宗長の書いた日記によれば、城の周囲は水で、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見えたとあります。 この絵に見るように、まさに、天然の沼地の中に、島状に残る微高地や自然堤防を巧みに利用して作られていました。


出典:行田市郷土博物館パンフより


 下図は「天正年間における武蔵忍城之図」です。

 図を見ると、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっています。またこの城は確かに湿地帯の中に城があるように見えます。現在残っている堀はごく一部ですが、かなり広大な堀や運河、湿地があったのです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


◆板碑

 中世の人々の信仰を伝える板碑が、市内には数多く残されています。市内最古のものは、嘉禎2年(1236)、最も新しいものは、元亀2年(1571)になります。展示では、市内に残る板碑の中から代表的なものを紹介しています。


出典:行田市郷土博物館パンフより


◆忍城水攻めの経過

 忍城は要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つとなっており、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称されていました。

 下は忍城水攻めの経過です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15
 
  博物館には、関ヶ原合戦屏風(行田市指定文化財)がありました。以下がその屏風図です。かなり鮮明に見えます。非常に鮮明に関ヶ原の合戦と前日の戦いを描いています。六曲一双の屏風です。


つづく


出典:行田市郷土博物館パンフより