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忍城の行田探訪

行田市郷土博物館

近・現代の行田

(明治時代以降)

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
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忍城の行田探訪(埼玉県行田市)
@ 行田市へ A 戦国時代 B 江戸時代 C 明治以降 D 行田の足袋
E 城内展示 F 忍城 G 水城公園 H 成就院三重塔 I 古代蓮の里


 下は博物館一階の展示イメージです。


出典:行田市郷土博物館パンフより



出典:行田市郷土博物館パンフより

 明治4年(18871)7月の廃藩置県により忍藩はなくなります。

 その結果、忍藩は忍県になり、さらに同年11月には最初の埼玉県に合同していきました。

 わずか4ケ月でしたが、忍県が置かれ、かつての忍城ニノ丸にあり殿様ご住居と呼ばれた建物が県庁にあてられました。

 その後、現在の埼玉県は、当時、西側が入間県、東側が埼玉県となっており、入間県の県庁所在地が川越、また埼玉県の県庁所在地が浦和となっていました。行田市の前身である忍は、埼玉県の北部にあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

 明治22年(1889)に成田町、行田町、佐間村とその周辺が合併して忍町が誕生しました。下図は、その経過を図にしたものです。

 成田町、行田町、佐間村が合併し忍町となり、その後、忍町、長野村、星河村、持田村が合併し忍町となります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

 この忍町の時代はまさに足袋に象徴される時代で、足袋は終戦後の需要減まで、行田の町を支えた基幹産業でした。

 昭和24年に市制を施行し、行田市となり、以来周辺の村と合併を重ね、今日の市域を形成してきました。


▲忍馬車鉄道

 明治16年に現在の高崎線が開通した時、行田にはレールが敷設されませんでした。

 鉄道の必要性を痛感した行田の人々は、明治34年に行田・下町と吹上停車場とを結ぶ馬車鉄道を開業させました。以来20年あまり営業されましたが、大正11年頃に廃止になりました。


出典:行田市郷土博物館パンフより

 これは明治以降の人力車です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


▲忍商業銀行

 地元産業の資金安定のため明治29年に行田の商家や地主らが中心となり設立された銀行です。


出典:行田市郷土博物館パンフより


忍沼

 現在の市役所のある通りで、かつての忍城の堀になります。

 この堀は天然の沼地で城無き後は、広い沼として残され、年に一度の沼の掃除を沼干と呼び、大きな魚が取れたといいます。

 その後埋め立てられ、現在は市役所、産業文化会館などが並び、末端部分を公園とし利用しています。


出典:行田市郷土博物館パンフより


◆町並み

 現在の商工センターの屋上撮影したもので、奥に見える建物が忍町尋常高等学校で、現在の市役所の位置になります。


出典:行田市郷土博物館パンフより


◆軍事教練(忍商業学校)

 戦争の影は学校においても色濃くなり、子供達の多くは勤労に出かけ、残された子供達も軍事教練と言う名の訓練が諜せられていました。


出典:行田市郷土博物館パンフより


つづく