シルクロードの今を征く Now on the Silk Road (History of Syria) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) シリア歴史1 シリア歴史2 シリア歴史3 シリア歴史4 シリア文化1 ダマスカス1 ダマスカス2 ダマスカス3 ダマスカス4 ダマスカス5 次はシリアの歴史2です。 ◆シリアの歴史2 独立・シリア共和国 1946年、シリア共和国としてフランスより独立。同年、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きますが、政府により鎮圧されます。 1949年3月、クーデターによりフスニー・アル=ザイームが政権を握りますが、同年8月に打倒されハーシム・アル=アターシーの挙国一致政権が成立しました。 1951年12月にアディーブ・アル=シーシャクリーによるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立します。 1952年、再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きますが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止しました。 1954年、ドゥルーズ派による反乱が起きますが、政府により鎮圧されます。 同年、クーデターにより、シーシャクリー政権が打倒されました。 1957年、ソ連との間に経済技術援助協定が締結されました。 アラブ連合共和国 1958年2月にエジプトと連合、「アラブ連合共和国」が成立した(首都:カイロ)。同年3月、北イエメンが連合国家に合流しました。 翌1959年には、エジプトによって全政党が解党され、翼賛政党へ加入しました。 独立・シリア・アラブ共和国 1961年9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立しました。 バアス党政権樹立 1963年3月8日、革命によりバアス党が政権を獲得しました。 1964年、ハマー動乱勃発します。同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺されます。 1966年、クーデターが起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂します。 1967年、第3次中東戦争勃発、ゴラン高原を失いました。 ハーフィズ・アル=アサド政権 1970年、バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健・現実主義派がクーデター(矯正運動)で実権を握ります。 1971年、ハーフィズ・アル=アサドが大統領に選出されました。 1973年、第四次中東戦争勃発します。 1976年、レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。 1980年、ソビエト・シリア友好協力条約締結。 1981年、ハマー虐殺。 1982年、ハマー虐殺。 2000年、ハーフィズ・アル=アサド大統領が死去し、息子のバッシャール・アル=アサドが大統領に就任しました。 バッシャール・アル=アサド政権 ダマスカスの春 一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされる事が多いのですが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されず、その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、より厳密には個人独裁ではなくバアス党(及び衛星政党)による一党独裁です。 バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春」と呼びました。 改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には、改革に反対するバアス党内の守旧派や軍部の抵抗で思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制が僅か1ヶ月足らずで崩壊させられたことを受けて、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩みます。 近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなりました。理由としては、グルジアなどで、いわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたからだと見られています。 その後、アラブの春へと続く反政府運動を受けて、これまでの引き締め政策は転換し反政府側に融和的な政策を打ち出したものの失敗したことで結果的にはその後のシリア内戦へとつながって行きました。 2005年、レバノンよりシリア軍が撤退しました。 2007年に、バッシャール・アル=アサドが大統領信任投票において99%の得票率で再選され、2期目の就任を果たしました。 翌2008年、隣国レバノンとの間に正式な外交関係が樹立され、大使館設置で合意しました。 バッシャール・アル=アサド政権 ダマスカスの春 一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いのですが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されていません。 その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、より厳密には個人独裁ではなくバアス党(および衛星政党)による一党独裁です。バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春」と呼びました。 改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には、改革に反対するバアス党内の守旧派や軍部の抵抗で思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けて、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩みます。 近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなりました。理由としては、グルジアなどでいわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたためだと見られています。その後、アラブの春へと続く反政府運動を受けてこれまでの引き締め政策は転換し、反政府側に融和的な政策を打ち出したものの失敗したことで、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていったのです。 2005年 - レバノンよりシリア軍撤退。 2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。 2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。 シリア歴史3へつづく |