エントランスへはここをクリック   

 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

シリアの歴史1

History of Syria)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁
総合メニュー(西アジア)

シリア歴史1  シリア歴史2  シリア歴史3  シリア歴史4  シリア文化1
ダマスカス1  ダマスカス2   ダマスカス3  ダマスカス4  ダマスカス5

 次はシルクロードの中間点にあるシリア1です。

◆シリアの歴史1

 シリアの地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わりました。近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていいのです。

概史

先史

エブラ遺跡

 この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に氷期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められた。

 紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽がありました。

「肥沃な三日月地帯」

古代中東地域の都市と諸勢力

 紀元前3千年紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなどセム語を使用する人々が建てた都市国家群が成立し、そのうちエブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていました。

 紀元前23世紀頃には王の道やウィア・マリスという通商交易路が使われていました。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされます。

 マリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えますが、紀元前1850年アッシリア王のシャムシ・アダド1世がヤスマフ・アダドをマリ王にし間接支配を布きました。

 そして紀元前1759年にはバビロニアのハンムラビに滅ぼされました。紀元前15世紀にミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国を滅ぼしました。

 一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開されました。

 海の民によりヒッタイトが滅亡するとアラム人の小国が乱立。その後はアッシリアがティグラト・ピレセル3世などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年アッシリアが統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族スキタイに押されて南下したキンメリア人の侵攻を受けました。

 その後、アッシリア最後の偉大な王とされるアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、ニネヴェ図書館と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管しました。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持っています。

 しかし彼の死後、急速に衰退したアッシリアは紀元前612年に新バビロニアとメディアの攻撃を受けて滅亡しました。そして新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立しますが、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がメソポタミア地域の統一、続くカンビュセス2世が古代エジプトを制圧し、ついに古代オリエント世界全域の支配に成功しました。

ギリシアとローマの支配

ローマ帝国のシリア属州

 アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いきましたが、アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の征服を受けると、急速にギリシア化が進みましだ。

 紀元前322年のディアドコイ戦争でアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年にセレウコス朝が建国されました。セレウコス朝はインドからイランをへてアナトリアにいたる広大な領土を持っていましたが、紀元前200年ころからアルサケス朝、グレコ・バクトリア王国の侵食を受け縮小します。さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマ(共和政ローマ)とローマ・シリア戦争などで交戦状態となって衰退してゆき、紀元前64年にローマ帝国に併合されました。

 ローマ帝国の支配下ではパルミラなど諸都市が大いに栄えました。ローマ帝国が東西に分裂するとシリアは東ローマ帝国の版図に入ります。

イスラム圏へ

ダマスカスのウマイヤド・モスク(7世紀)

 7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられました。ウマイヤ朝のもとではダマスカスが首都とされました。その後754年に樹立されたアッバース朝はバグダードを首都としたため、シリア地方に転落しました。しかし、バグダードからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備されました。その後10世紀にはファーティマ朝が支配しますが、10世紀末の反抗運動により撤退しました。

トルコ系王朝

 その後中央アジアからトルコ系遊牧民が渡来し、セルジューク朝を樹立すると、シリアにはシリア・セルジューク朝が成立しました。その頃ヨーロッパから十字軍が侵攻し激戦が展開され、アンティオキアを都に置くアンティオキア公国が建国されました。1117年にシリア・セルジューク朝が滅亡すると、代わってアルトゥク朝が支配しました。

クルド系王朝

 1194年にはアイユーブ朝が取って代わりました。

モンゴル帝国

 1260年にフレグ率いるモンゴル人がこの地の征服を開始します(モンゴルのシリア侵攻)。2月25日、アレッポ攻囲戦があります。4月、ダマスカスを占領。9月3日、アイン・ジャールートの戦いです。秋、イル汗国を建国します。12月10日、ホムスの戦いがあります。

 1262年、ベルケ・フレグ戦争

 1277年、エルビスタンの戦い。1281年、第二次ホムスの戦い。1299年、en:Battle of Wadi al-Khazandar。1303年、en:Battle of Marj al-Saffar (1303)。

マムルーク朝

 その後シリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受けることになりました。

オスマン帝国

 北方でオスマン帝国が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになりました(ダマスカス・エヤレト、1517–1865)。

 ダマスカス・エヤレトは、アレッポ・エヤレト(1534–1864)、トリポリ・エヤレト(1579–1864)、シドン・エヤレト(英語版)(1660–1864)、シリア・エヤレト(1865–1918)の4つに分割されました。

OETA

 1917年、オスマン帝国が占領され、占領下敵国領政庁(1917年 - 1920年)が成立しました。

フランス占領期

フランス委任統治領シリア

 1920年3月8日、シリア・アラブ王国の独立はハーシム家のファイサル1世が国王に即位することで達成されました。 しかし、フランス・シリア戦争(en:Battle of Tel Hai、マイサラムの戦い、en:Siege of Damascus (1920))におけるシリア・アラブ軍とフランス軍との間で衝突すると、7月24日にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後にイラク王国の王になります。

 国際連盟がシリアをフランスの委任統治下においたのち、フランス軍はシリアを占領しました(フランス委任統治領シリア、1920年-1946年)。その後、フランス委任統治領シリアは、en:State of Damascus、en:State of Aleppo、en:Alawite State、en:Jabal Druze State、en:Sanjak of Alexandretta、大レバノンに分割・統治されました。

 フランスとシリアはフランス・シリア独立条約を1936年9月に交渉しました、ファイサル王政下のシリア首相、ハーシム・アル=アタースィーは新政権下での新しい大統領に選ばれ、その結果、近代最初のシリア共和国が樹立されました。 しかし、フランスは条約を 破り、それを批准することを拒否しました。

 第2次世界大戦時、1940年のフランス陥落により、シリアは、1941年7月にイギリス軍と自由フランス軍に占領されるまでヴィシー政権の統治下におかれました。 シリアは1941年にその独立を宣言しました。

 しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは1944年の7月のことでした。1945年2月、シリアはドイツと日本に宣戦布告をしました。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、1946年4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺されました。


シリア歴史2つづく