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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ダマスカス2

History of  Damascus2)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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 次はシリアのダマスカス2です。

◆ダマスカス2

歴史


カシオン山からの夜のダマスカス。緑の明かりはミナレット
CC 表示-継承 3.0, リンク
Source:Wikimedia Commons

 古代からシリア地方の中心都市で、紀元前10世紀にはアラム人の王国の首都が置かれていました。

 その独立は新バビロニアやペルシア、セレウコス朝、ローマ帝国に敗北し失われました。ローマ時代においてダマスカスはギリシャ・ローマ文化のとても重要な中心であり、自由都市連合の名誉都市となりました。その後イスラム帝国によって635年に征服され、ウマイヤ朝の首都として栄えました。

 ウマイヤ朝が705年にキリスト教の教会をモスクに改造して設けたウマイヤド・モスクが現存し、シリアで没したサラーフッディーン(サラディン)やバイバルスの墓もこの町にあります。

古代

 ダマスカスの辺縁にあるテル・ラマドの遺跡により、ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住していたことが分かっています。

 ダマスカスが人間が連続的に定住した世界で最も古い都市であるといわれるのは、これによる。しかし、アラム人(アラビア半島から来たセム語派系の遊牧民)の登場までは、ダマスカスは重要な都市として記されることはありませんでした。

 バラダ川の利便性を最大に広げた運河と隧道の建設によってダマスカスに水道システムを初めて構築したのはアラム人であることが知られています。後にこのネットワークはローマ人とウマイヤ朝によって改良され、今日のダマスカス旧市街の水道システムの基礎をなしています。

 紀元前1100年、この都市はアラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心になります。アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア人とイスラエル人とのいくつもの戦争に巻き込みました。そうした王の一人、ベン・ハダト2世は、カルカルの戦いにおいてシャルマネセル3世と戦いました。

 アラム人の都市の遺構は壁に囲まれた旧市街の東部に埋まっている可能性が最も高いと言えます。紀元前732年にティグラト・ピレセル3世が都市を占領し破壊して後、数百年間独立を失い、紀元前572年に始まるネブカドネザル2世による新バビロニア王国の支配下に入ります。バビロニア人の支配は、紀元前539年キュロス率いるペルシア帝国軍が都市を占領し、ペルシア支配下のシリア州の州都としたときに終わります。

ギリシア・ローマ


旧市街のバーブ・シャルキー通り。ヴィア・レクタ(Via Recta、「直線通り」)の名残。ヴィア・レクタは古代のローマ都市計画におけるデクマヌス・マクシムス(東西の中央大通り)であり、東門と西門を直線で結ぶ。新約聖書の「使徒行伝」では、パウロの回心の舞台となりました
Bernard Gagnon - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


アル=ハミディヤ市場の入口にあるユピテル神殿跡
Ai@ce - https://www.flickr.com/photos/aiace/2177466137/, CC 表示 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 ダマスカスは、近東を席巻したアレキサンダー大王の大遠征により西洋の支配下に入ります。紀元前323年アレキサンダーの死後、ダマスカスはセレウコス朝とプトレマイオス朝の闘争の場となります。都市の支配権は両者の間を頻繁に行き来ししました。

 アレキサンダーの将軍の一人セレウコス1世ニカトールは、アンティオキアを彼の広大な帝国の首都にしました。これにより、北方のラタキアのような新たに建設されたセレウコス朝の都市に比べると、ダマスカスの重要性は衰えることになりました。

 紀元前64年、ポンペイウス率いるローマがシリア西部を併合しました。彼らはダマスカスを占領し、デカポリスとして知られる十都市連合に組み入れました。ギリシャ・ローマ文明の主要な中心地だと考えられたためでした。

 新約聖書によれば、聖パウロが幻視を体験したのはダマスカスへ向かう途中であったとされています。37年、ローマ皇帝カリグラは政令によりダマスカスをナバテア王国の支配下に置きました。ナバテアの王アレタス四世フィロパトリスは首都ペトラからダマスカスを支配しました。しかし、106年頃、ナバテア王国はローマ人に征服され、ダマスカスはローマの支配下に戻ります。

 ダマスカスは2世紀の始めまでには一つの巨大都市になっており、222年、皇帝セプティミウス・セヴェルスによりコロニアに昇格します。パックス・ロマーナの到来とともに、ダマスカスとローマ領シリアは全体的に繁栄します。南アラビア、パルミラ、ペトラからの貿易路、および中国に始まる絹の貿易路がすべてダマスカスに収斂することから、キャラバン都市としてのダマスカスの重要性は顕著でした。ダマスカスは東方に産する贅沢品へのローマ人たちの需要を満たしていました。

 ローマ建築の遺構はほとんど残っていませんが、旧市街の都市計画は長く続く効果を持っていました。ローマ人の建築家は、ギリシアとアラムの都市基盤を組み合わせ、城壁に囲まれました、長さおよそ1,500×750mの新しいレイアウトに融合させました。城壁には七つの門がありましたが、東門(バーブ・シャルキー)はローマ時代から残り続けています。ローマ時代のダマスカスはほとんどが現在の都市の5m以内の地下に埋まっています。


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