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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ダマスカス4

History of  Damascus4)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
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 次はシリアのダマスカス4です。

◆ダマスカス4

マムルーク朝の支配


アゼム宮殿
GFDL, リンク
Source:Wikimedia Commons

 アイユーブ朝の支配(および自治)は、1260年モンゴル帝国がシリアに侵入したときに終わる。モンゴルの撤退後はマムルーク朝の地方首都となり、エジプトから支配されます。

ティムール襲来

 1400年にモンゴル人の征服者ティムールがダマスカスを攻撃しました。マムルークのスルタンはカイロから、イブン=ハルドゥーンら代表団を送り交渉に当たらせますが、彼らが去った後街は略奪されます。ウマイヤド・モスクは燃やされ、男女は奴隷にされました。

 膨大な数の職人がティムールの首都サマルカンドに連れ去られました。それでも、彼らは幸運な部類でした。数多くが虐殺され、その首は城壁の北東隅の外に積み上げられました。今日なお都市の一角にburj al-ruus(原義は「首の塔」)という名が付いています。

 ダマスカスは再建され、1516年までマムルーク朝の地方首都として機能した。

オスマン帝国の統治

 1516年にマルジュ・ダービクの戦いでオスマン帝国がマムルーク朝を破って以来、ダマスカスは1918年までオスマン帝国によって統治されることとなりました。オスマン帝国による統治が始まった1516年当時の人口は、全市でおよそ5万5,000人(約8,000戸)ほどであったと推定されています。

 オスマン帝国時代には数度にわたる行政区画の改変がありましたが、ダマスカスは常に州都の地位を維持していました。これは、ダマスカスがアレッポと共に帝国のシリア地方支配の要となる都市であり、長くこの地域の政治・経済の中心地であったほか、ムスリムにとって重要なマッカ巡礼に向かうキャラバンの出発地であったため、その点においても帝国にとって重要な都市であったためです。

 18世紀以降帝国が衰退を始めると、各地でアーヤーン(名士)と呼ばれる半独立の大土地所有者が登場します。シリア地方も例外ではなく、ダマスカスとハマを治めたアズム家などが知られています。アズム家は州の総督の座を世襲し、中央の権力から半独立状態を保りました。

 アズム家は19世紀に入ると中央政府によるタンズィマート(恩恵改革)によって独占的な地位を失ったものの、その後もダマスカスの名望家として地域社会に大きな影響力を与え続けました。ダマスカスの旧市街にはアズム家によって建てられた宮殿が残っており、現在では観光名所の一つとなっています。

 その後、二度のエジプト・トルコ戦争の結果、1832年から1840年にかけてシリア地方はエジプトのムハンマド・アリー朝の支配を受け、ムハンマド・アリーの息子であるイブラーヒーム・パシャがダマスカスを支配しました。その後、1840年のロンドン条約によってダマスカスがオスマン帝国の支配下に戻ると、ダマスカスにはオスマン帝国軍の第5軍団の司令部が置かれました。

 1860年には大規模な暴動が発生しています。背景にあったのは経済的な問題でしたが、キリスト教徒とムスリムの宗教対立に転嫁したことで多数の犠牲者を生みました。

 1870年代にはシリア州総督となったミドハト・パシャによってスーク(市場)の整備などが行われ、この時期に整備された二つの屋根付きのスークは現在でも使用されています。また、1908年には市電が開業しています。


ダマスカスのヒジャーズ鉄道のヒジャーズ駅
Heretiq - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 19世紀後半から20世紀初頭のダマスカスは、徐々に近代的なインフラの整備も行われ、地域における政治・軍事の中心地としても重要な都市でした。しかし、以前とは異なり経済面では新興の港湾都市であるベイルートにその地位を脅かされるようになっていました。

 これはスエズ運河が開通したことで、ヒジャーズ方面への旅客・貨物が以前のようにダマスカスを通らずにベイルートから直接船で運ばれるようになったためです。このような状態に危機感を覚えたダマスカスの商人達は、対抗手段としての鉄道建設を強く要望し、中央政府への陳情を繰り返しました。これは、1900年から始まったダマスカスを起点とするヒジャーズ鉄道の建設という形で一応の結実をみましたが、それでもベイルートに奪われた地域経済の主導権を奪い返すまでには至りませんでした。

 また、ダマスカスは近東におけるドイツの「世界政策」(3B政策)の舞台にもなりました。1898年にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世自らダマスカスを訪れ、「ドイツ皇帝は世界3億の回教徒の友人である」という有名な演説を行ってドイツ帝国とオスマン帝国の関係の緊密さをアピールしました。

 この際ヴィルヘルム2世はサラーフッディーンの廟に参詣し、石で出来た棺と金属製の花輪を寄贈しています(なお、花輪は後にトーマス・エドワード・ロレンスがダマスカスに入城した際に持ち去ったといわれています。棺の方は現在でも廟に展示されています)。


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