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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ダマスカス1

History of Damascus1)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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 次はシリアのダマスカス1です。

◆ダマスカス1


ダマスカス市のモンタージュ
CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都です。ダマスクスとも表記されます。

 アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)といいます。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記されます。

 「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られます。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がります。現在の人口は約200万人といていますが、都市圏全体では400万人に迫るといわれていまする。

名前

 アラビア語では、この街は正式にはディマシュク・アッシャーム (دمشق الشام Dimashq ash-Sham) と呼ばれています。多くの人は「ディマシュク」と短縮しますが、ダマスカス市民やシリアほかアラブ圏の人々は「アッシャーム」の別名で呼びます。「アッシャーム」はアラビア語の「北」を語源とし、シリア(特に、歴史的シリアについて)のことは「ビラード・アッシャーム」(北の地)と呼びます。

 英語の「Damascus」はギリシャ語のΔαμασκόςを語源に、ラテン語経由で伝わりました。これはさらに古いアラム語の都市名でダルメセク(דרמשק Darmeśeq よく灌漑された場所)からきています。しかし、アラム人の時代以前の遺跡であるエブラの王国跡地から出土した粘土板には、エブラの南にある町を「ダマスキ」と記しており、ダマスカスの名の起源はアラム人以前に遡る可能性が大きいと言えます。

 ダマスカスという地名の初出と考えられる文献は、紀元前15世紀のエジプトのトトメス3世の残した地理文献にある「T-m-ś-q」と読める文字であります。「T-m-ś-q」の語源は不明ですが、アッカド語では「ディマシュカ Dimašqa」、古代エジプト語では「T-ms-ḳw」、古アラム語では「ダマスク Dammaśq דמשק」、聖書ヘブライ語では「ダメセク Dammeśeq דמשק」と呼ばれていました。

 アッカド語のものは、紀元前14世紀のアマルナ文書におけるアッカド語文献に出てきます。

 後のアラム語における綴りは、「住居」を意味する語幹の「dr」に影響されて「r」(レーシュ)が入るようになり、クムランの文献では「ダルメセク Darmeśeq דרמשק」に、シリア語では「ダルムスク Darmsûq ܕܪܡܣܘܩ」となりました。

 ダマスク織や金銀細工のダマスキナードにその名を残しています。

地理


ウマイヤド・モスクのミナレット
Heretiq - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 ダマスカスは地中海から約80km内陸に位置し、アンチレバノン山脈で海からさえぎられています。街はアンチレバノン山脈の麓の、海抜680mの高原の上にあります。

 城壁に囲まれた古代都市ダマスカスはバラダ川のすぐ南岸にあります。その南東、北、北東の方角には中世に遡る近郊地域ります。また南西にはミーダーン、北と北西にサールージャとアマーラの各地区があります。

 これらの地区はもとは都市から外に出る街道沿いの、宗教上重要な墓所の近くに発生したものでした。東にはグータ (الغوطة Ghouta) という、バラダ川などの内陸河川が潤す森や田園からなる大きなオアシスがあり、エデンの園のモデルとされる場所です。

 19世紀、旧市街を北西から見下ろすジャバル・カシオン(カシオン山、旧約聖書創世記においてカインがアベルを殺したとされる場所)の斜面上に近郊農村が開発されました。すでに近くには、ムヒッディーン・イブン・アラビーの廟の周りにサリヒイー地区ができていました。

 これら新しい地域はまずクルド人の軍人たちやオスマン帝国のヨーロッパ地域(キリスト教徒に制圧されつつあった)からのムスリム難民らが入植しました。それゆえ、これら地域は「アクラード」(クルド人)や「ムハージリーン」(移民)と呼ばれています。これらは旧市街から2-3km北に横たわっています。


ダマスカスの衛星画像。ダマスカスは周囲を緑のオアシスに囲まれる
Cnes - Spot Image - http://gallery.spotimage.com/product_info.php?products_id=1363, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wiimedia Commons

気候

 裁判所、郵便局、アナトリアやヒジャーズに通じるヒジャーズ駅が、少し南の高い場所にできました。ヨーロッパ化された住宅街区がマルジェ広場とサーリヒーヤ地区の間をつなぐ道路沿いにでき始めました。新市街の商業と行政の中心地は、次第にその方向へ、北側へ移動し始めました。

 20世紀になると、より新しい郊外がバラダ川の北側に開発されまし、旧市街の南にも広がりグータ・オアシスを侵食し始めました。1955年から、新しい街区ヤルムークが数万人のパレスチナ難民のキャンプとなりました。ミッシェル・エコシャールや番匠谷尭二といった都市計画家らは南のグータの森を可能な限り残そうと考えたため、20世紀後半には主な開発は市の北部、および西部のメッゼ地区、最近ではバラダー川の流れる先の北西部ドゥンマルの谷と、北東部のベルゼの山々の斜面で行われています。貧困な地区は、公式な許可なく建てられ、ほとんどは旧市街の南に集中しています。

 ダマスカスはオアシスに囲まれていまっす。グータ・オアシスの森は、バラダ川の水に潤されています。バラダ川に沿って西に行ったところにあるフィジェーの泉は市街に飲料水を提供しています。グータ・オアシスは、ダマスカスの急速な住宅や産業の拡大により面積が減ってきています。また街の交通、産業、廃棄物により汚染されてきています。

気候


 19世紀後半から、近代的な行政・商業の中心が旧市街の西側のバラダ川の周囲、「マルジェ(牧草地)」と呼ばれる場所を中心に発生しました。マルジェはすぐに近代のダマスカスの中心となる市庁前の広場の名前(マルジェ広場)となっています。
 1981-2010年の平年値によると、1月の平均気温は6度、7月の平均気温は27度、年間平均気温は16.7度、年降水量は176.1㎜である。

出典: BBC Weather[6]

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