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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ダマスカス3

History of  Damascus3)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
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 次はシリアのダマスカス3です。

◆ダマスカス3

ムスリムの征服からファーティマ朝ま


ウマイヤド・モスク 現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である
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Source:Wikimedia Commons

 636年、ダマスカスは第2代正統カリフ・ウマル・イブン=ハッターブ(ウマル一世)に征服されます。その直後、アンダルス(現在のスペイン)からインドまで広がるウマイヤ朝(661年-750年)の首都となったときに、この都市の力と威光は頂点に達しました。

 705年にキリスト教会をモスクに改造したウマイヤド・モスクは今でもダマスカスに残っています。744年、最後のウマイヤ朝カリフ、マルワーン2世は首都をジャズィーラ(メソポタミア北部)にあるハッラーンに移し、以後ダマスカスはこれほどの政治的重要性を取り戻すことはありませんでした。

 750年、ウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が興ると、ダマスカスはバグダードから支配されます。858年、アル=ムタワッキルは首都をサマラから移転する意図の下に短い間ダマスカスに居を構えましたが、すぐにこの考えを放棄しました。

 アッバース朝が傾くにつれ、ダマスカス方面は不安定となり、地方政権の支配下に入ります。875年、エジプトの支配者アフマド・イブン・トゥールーンがこの都市を手に入れ、アッバース朝の支配は905年になるまで回復しません。945年、ハムダーン朝がダマスカスを手に入れ、その後しばらくしてイフシード朝の開祖ムハンマド・イブン=トゥグジュの手に渡ります。968年そして971年にダマスカスは短い間カルマト派に占領されます。

ファーティマ朝、セルジューク、十字軍


 970年、カイロにいたファーティマ朝のカリフがダマスカスの支配を取り戻します。これがこの都市の波乱の時代の幕開けでした。ファティマ軍の主力をなすベルベル人の軍隊は、市民の間で非常に不評を買いました。シリアにおけるカルマト派、時にはトルコ人の軍隊の存在は、ベドウィンからの絶え間ない圧力を増やしました。

 978年から短い間、ダマスカスはイザッディン・アル・カッサムの指導と市民軍の保護の下で自治を行っていました。しかし、グータ・オアシスはベドウィンの侵入を受け、トルコが率いる戦役の後、この都市は再びファティマ朝の支配に屈します。

 1029年から1041年までは、ファーティマ朝カリフ・ザーヒルの下、トルコ人の軍事指導者アヌシュタキンがダマスカスの総督となり、かつての栄光を取り戻すため大いに働きました。

 この期間は、ダマスカスがブロックとインスラ(集合住宅)で特徴付けられるギリシア・ローマ風の都市計画から、より親しみやすいイスラム風の都市へとゆっくりと変わっていく時期であったようです。格子状の直線の大路は、狭い街路のパターンへ変わり、ほとんどの住人が、夜には犯罪者や徴税から守るための重い木戸で閉鎖されるハラートの中に住むようになりました。

 11世紀後半のセルジューク朝の到来により、ダマスカスは再び独立国家の首都になります。1079年から1104年まではセルジューク朝およびシリア・セルジューク朝に支配されましたが、それから別のトルコの王朝、ブーリー朝に支配されます。

 彼らは1148年の第2回十字軍の攻城戦にも耐え抜きました。1154年にはダマスカスは十字軍の宿敵、アレッポのザンギー朝の有名なアターベク・ヌールッディーンに征服されます。彼はダマスカスを首都としましたが、彼の死後にアイユーブ朝エジプトの支配者サラーフッディーン(サラディン)に奪われ、その首都となります。

 サラーフッディーンは城砦を再建し、彼の統治下では郊外もあたかも都市そのもののごとく広大であったといいます。イブン・ジュバイルの記すところによると、サラーフッディーン時代にはダマスカスは多くの大学があり「乱されることのない研究と隠遁」を求めて世界中から集まる勤勉な若者や知識を求める者を歓迎したといいます。アイユーブ朝はサラーフッディーンの死後内紛で徐々に衰退します。

 この当時ダマスカス鋼は十字軍の間で伝説的な名声を得、今日なお模様の有る鋼はダマスカスと呼ばれます。ビザンチンや中国でつくられる紋様のある絹織物は、シルクロードの西の終点ダマスカスを経由して運ばれたため、英語ではダマスク織という言葉が生まれました。


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