シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次はトルコのイスタンブルの東ローマ帝国の都市1です。 ◆イスタンブル・東ローマ帝国の都市1(Istanbul、トルコ) ![]() 出典:Wikipedia 東ローマ帝国の都市 東ローマ帝国の多くの都市は、ローマ帝国の時代から継承されたものです。ローマ帝国の混乱によって、3世紀後半から4世紀にかけてローマ時代の都市は広範囲に衰退しましたが、5世紀から6世紀になると東ローマ帝国の勢力範囲内では経済が再生し、これに伴って建築活動も盛んになりました。 交易の活性化は、南イタリアからバルカン半島沿岸部、コンスタンティノポリスからアナトリア半島沿岸部、シリア一帯で見られますが、東ローマ帝国とサーサーン朝の衝突や異民族の侵入などによって安定せず、大局的には地方都市は徐々に衰退していました。 このような地方経済の低下は、地方都市の公共業務の担い手であった裕福市民層の減衰を招きました。中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されましたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物は東ローマ帝国時代には建設されなくなりました。 都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下しました。劇場は競技場よりは活用されましたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会から度々禁止令が出され、やがて放棄されて行きました。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年にテオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発した後、廃棄されるか破壊されました。 ![]() テオドシウス2世の城壁 コンスタンティノポリスを防衛していた大市壁 GFDL, リンク Source:Wikimedia Cmmons ![]() ミストラ全景 右手山頂にあるのが宮殿。距離300m内で240mもの高低差の ある急傾斜地に市街地が形成されている。 Myself, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Cmmons このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなりましたが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小しました。異教の神殿は6世紀頃にキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイのパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となりました。 このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ないといえます。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、東ローマ帝国時代の都市は、古代ローマ時代の都市よりもずっと小規模です。 ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されましたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビア(現ハラビエ)といった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点でした。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドとデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されています。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に避難する生活でした。 東ローマ帝国は6世紀に衰退を始め、都市部の経済活動も完全に停滞しました。サーサーン朝ペルシャとの戦乱に巻き込まれたシリアからアナトリア半島の都市は壊滅状態のまま国家統制から排除され、イスラム帝国が勃興してからはシリア、エジプトの海上拠点も制圧されました。バルカン半島は北方からの侵入したブルガリア人とマジャール人に悩まされただけでなく、沿岸地域からはイスラム帝国に攻撃されました。 貿易は完全に停止し、地中海貿易によって成り立っていた古代都市は、略奪され、あるいは経済的停滞によって完全に衰退・放棄された。特に北方から来襲したスラブ人の勢力下におかれたバルカン半島の都市は10世紀まで荒廃した状態にあり、住居は粗悪なものであったので、建物の平面ですら確認するのが困難でした。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化しました。 このような東ローマ帝国の中世都市の雰囲気をよく残しているのが、ペロポネソス半島のモネンヴァシアや、ギョーム2世ヴィルアルドゥアンによって建設されたミストラです。ミストラは完全に中世のものではなく、また、ノルマン人によって建設されたものですが、末期東ローマ帝国の都市を知る上で重要な手掛かりとなります。町は高低差240mの急斜面にあり、はっきりした街路計画も中心部もありません。貴族も庶民もつましい生活を送っていたらしく、住居は大きな居間が1つで、独立した部屋はなく、食事や睡眠、排泄もそこで行われていました。 修道院での慈善施設 ローマ帝国では、公共業務は都市の有力市民層によって運営されていましたが、都市の衰退とともに有力市民層も没落すると、それは教会によって維持されることになりました。キリスト教組織は、すでに国教化以前から積極的に慈善活動を行っていましたが、4世紀から5世紀になると、各地域の主教が慈善施設の設立について重要な役割を果たすようになり、病院や救貧院といった施設を創設し、これを管理するようになりました。 これを受けて、451年のカルケドン公会議では、主教が慈善施設の運営に責任を持つことが成文化され、さらに544年にユスティニアヌス帝の発令した教会機関に対する法令において、主教は教会内部に宿泊施設、救済施設、病院、孤児院、養老院といった施設を設け、これらを維持するように計らう責任があることが明確に示されました。 さらに、慈善施設は、設置する基準としてその運営能力を証明する必要性がありましたが、活動は慈善目的に限られており、これを逸脱するような場合、主教は運営に介入する権限を有することも記載されています。 しかし、このような制度は形骸化し、11世紀には私的な慈善施設に対する主教の権限は剥奪されました。どの時点から主教の権限の低下が始まったのかは資料が少ないため不明瞭ですが、少なくとも9世紀には制度の変節が認められ、中世東ローマ帝国時代になると、裕福層の寄進によって設立された修道院の慈善施設は国家や教会権力から独立した事業として認識されています。 皇帝が私的に設立した修道院ですら、皇帝自身の私有財産と見なされ、必要な収入が確保できるように資産管理が行われていました。皇帝ロマノス1世レカペノスの設立したミュレレオン修道院(病院施設が付随)やヨハネス2世コムネノスの設立したパントクラトール修道院(病院施設・養老院・浴場が付随)がその代表的な例です。 パントクラトール修道院は1118年から1124年にかけてヨハネス2世コムネノスによって建設された南側のパントクラトール聖堂と、1136年以前にコムネノス家の墓所として建設された中央部のアギオス・ミハイル聖堂、そして北側のエウレーサ聖堂の3つの聖堂から成りますが、これに今日では残っていないコンスタンティノポリスの病人を収容する病院(パントクラトール・クセノン)と養老施設(ゲロコミオン)が付属した複合建築物でした。 パントクラトール・クセノンは規模が大きく、またその運営を記した『規律書(ティピコン)』や当時の歴史家ニケタス・コニアテスの著作によってその実態を推測することができます。 パントクラトールの病院は、外科的治療、眼・腸などの疾患治療、女性患者の治療、その他の5部門に分かれ、専門の医師、助手、補助員、女性スタッフらが常駐します。 入院患者のために合計で50床のベッドが用意され、院内には暖房用の暖炉が男性用に2、女性用に1つ設けられています。トイレは男性用、女性用がそれぞれ一カ所あり、夜間でも明かりが灯されていました。治療には入浴が重要視されていたため、浴室も設置されていました。 主聖堂とは別に、患者のために男性用と女性用の教会堂がそれぞれ設立されていました。主に貧困層を対象(とはいえ、極貧の者は対象ではなく、必ずしもすべての患者が貧困層というわけでもありませんでしたが)にした医療機関ですが、かなりの運営費用が割り当てられており、また今日の病院に匹敵するほどの高度な組織的運営が行われていたとする研究もあります。 つづく |