シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 ラテン帝国 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次は東ローマ帝国です。 ◆東ローマ帝国 ![]() 出典:Wikipedia 東ローマ帝国 東ローマ帝国(Eastern Roman Empire)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家です。 ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在しましたが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指します。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていました。 皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれました。 西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一されました。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となリました。 また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシャ人」へと変化して行きました。 概要 初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていました。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していました。 しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食されました。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下しました。 領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容しました。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わりました。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいます。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多いと言えます。 9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築きました。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えましたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退して行きました。 11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられました。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けました。文化的には高い水準を保っていましたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われました。 そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。 古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されています。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われています。 名称 皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には "+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人のバシレウス)と書かれています。この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれています。 東ローマ帝国 古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀のテトラルキア以降には、帝国をいくつかの領域に分けて複数の皇帝によって分担統治するという体制がとられることとなりました。395年のテオドシウス1世の死後に、長男アルカディウスが東方領土を、次男ホノリウスが西方領土を担当するようになって以降、帝国の「西の部分」と「東の部分」とはそれぞれ別個の途を歩むこととなりました。 帝国の東西分担統治が常態化して以降の帝国の「東の部分」を指して「東ローマ帝国」という通称が使われています。 ローマ帝国 3世紀末から4世紀前半にかけてローマ帝国の中心は東方世界へと移行しました。当時「皇帝」は世界に一人しかおらず、「皇帝」とは「ローマ皇帝」であることが自明であったため、わざわざ「ローマ皇帝」と名乗る必要もなかったのです。また、「ローマ人」の概念も、都市ローマとの結びつきが薄れ、ローマ帝国全土の住民の意味に変貌していきました。 更に、コンスタンティノープルが建設されたからといって直ちにコンスタンティノープルの権威が都市ローマを上回ったわけではないため、「コンスタンティノープル帝国」などという用語は発生しませんでした。しかし410年にローマが陥落すると、次第にコンスタンティノープルでは「新しいローマ」という自意識が育ち始めた。 五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。 同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになりました。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになりました。 ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシア語:ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn)」でした。 中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となりますが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania/Romania)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes/Elines)」ではなく「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei)」を称していました。 ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国 この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになりました。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(1516年~1580年)の功績とされています。 ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル、ヨハネス・レウンクラヴィウス、ドゥニー・プトー、ヴルカニウス、メウルシウス、レオ・アラティウスら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従いました。 これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けています。これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記です。 例えばオックスフォード・ビザンツ事典や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われています。 ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国 古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはありませんでした。 カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んいましだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていましたた。 東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのです。 13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「ヘレネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていました。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていました。 例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国でしたが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べています。 東ローマ帝国2へつづく |