シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次は東ローマ帝国5です。 ◆東ローマ帝国6 政治 ![]() 東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」 画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの Colossus - Colossus, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source;:Wikimedia Commons 6世紀になると330年5月11日が特別な記念日とされまし、 「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造されました。9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁にを用いるようになりました。 自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではありますが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出されました、「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになりました。 10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備されました。 他にも帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成されました。 ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシアに求めるようになり、住民の自称も「ローマ人」から「ヘレネス(ギリシア人)」へと変化していました。このように、この帝国では全てが流動的でした。こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考えられます。 政治体制 東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされました。 政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていました。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていました。 しかし、皇帝の地位自体は不安定で、たびたびクーデターが起きました。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような、活力ある社会を産むことになりました。 このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下して行きました。 このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられます。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴です。 行政制度 属州制からテマ制へ 地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていましたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になりました。 テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができました。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成されました。 ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれています。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われます。 テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられます。 この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人やペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させました。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説がありますが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強いと言えます。 住民 東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語でした。しかし東ローマ帝国の住民をギリシア人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎません。東ローマ帝国は初めにはアルメニア人・シリア人・コプト人・ユダヤ人のような多数の非ギリシア人を内包する多民族国家でした。 公用語はギリシア語でしたが日常会話にはスキタイ語・ペルシア語・ラテン語・アラン語・アラビア語・ロシア語・ヘブライ語なども存在しました。それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシア語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのです。 7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明ですが、ギリシア人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいます。むしろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前にはゴート人であり、7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり、12世紀以降においてはフランク人だったと言えます。 帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人らもいた。中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいます。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9〜11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝です。 帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していました。 東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのです。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していました。 一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられています。 つづく |