シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次は東ローマ帝国4です。 ◆東ローマ帝国4 中期(610年頃 - 1204年) 危機と変質 (7世紀 - 8世紀) 608年にカルタゴのアフリカ総督大ヘラクレイオスが反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)が皇帝に即位しました。 ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功しました。 627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われました。 東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、ギリシア語が徐々に事実上の公用語へと変わっていました。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしましたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていました。 軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。 ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、620年にはギリシア語が公用語であることを承認しました。また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「バシレウス(ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになりました。 この言葉はラテン語の rex に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられました。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けましたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付されました。 アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代) サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻しました。636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失いました。 641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着きました。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い)でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失いました。 656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(656年 - 661年)が始まります。 661年、ウマイヤ朝が成立。 ![]() ギリシア火薬を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍 不明 - Codex Skylitzes Matritensis, Bibliteca Nacional de Madrid, Vitr. 26-2, Bild-Nr. 77, f 34 v. b. (taken from Pászthory, p. 31), パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia commons 674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされましたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功しました。 680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国されました(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。 698年、カルタゴの戦いではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築されました。 その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小しました。 717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退しました(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避されました。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めました。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着しましたが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化しました。 女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリを締結しましたが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分されました。 ![]() アモリオンの戦い(838年) Unknown, 12th/13th century author - The Amorium Project: Site History, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のen:Battle of Krasos、806年のen:Abbasid invasion of Asia Minor (806)で戦火を交えましたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結びました。 811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻しましたが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が殺害され、後継者問題が起こりました。 ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされました。 814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結びました。827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服、827年-902年)、シチリア首長国(831年 - 1072年)が成立します。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了しました。 こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となりました。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともあります。 最盛期(9世紀 - 11世紀前半) ![]() 1025年の東ローマ帝国 Cplakidas - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons ![]() 軍装のバシレイオス2世 from the Middle Ages, unknown - English Wikipedia, original upload 24 August 2005 by Brastite. Original source: http://www.culture.gr/4/42/421/42103/42103e/e42103e3.html (archive link), パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons つづく |