シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次は東ローマ帝国5です。 ◆東ローマ帝国5 東ローマ帝国の全盛期を現出した <span lang="ja">不明</span> - <a ヨハネス2世コムネノス 不明 - このファイルは以下の画像から切り出されたものです: Comnenus mosaics Hagia Sophia.jpg〜によって Myrabella, 2013年1月, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons 彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えました 9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになりました。 一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化しました。バシレイオス1世はローマ教会との関係改善を図ってフォティオスを罷免した「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂しました。 政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行いました。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められました。 これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともあります。 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活します。 シルクロードの東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀) 1011年、西からノルマン人の攻撃を受けました(ノルマン・東ローマ戦争、1011年 - 1185年)。 しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は政治的混乱が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発しました。1040年にはブルガリア (テマ制)でen:Peter Delyanの反乱が起こり、ピレウスも呼応して蜂起しました。 セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年) 1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小しました。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われました。 1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功しました。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図りました。 アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回します。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻しました。 ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引きし、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れました。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊しました。 特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化しました。 1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗しました。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったにもかかわらず、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちました。 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭) 1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まりました。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世を廃して帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)も、セルビア王国(1171年)・第二次ブルガリア帝国(1185年)といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、有効な対策は打てずにいました。 第4回十字軍 十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国しまし。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなりました。 後期(1204年 - 1453年) 帝国の再興(1204年 - 1261年) ![]() 1265年のバルカン半島及び小アジア William Robert Shepherd - The Historical Atlas, William R. Shepherd, 1911., パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons 第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)でした。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1205年 - 1222年)、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:1222年 - 1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大しました。 モンゴル襲来(1223年 - 1299年) 周辺国では、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻)が始まり、1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、1245年のヤロスラヴの戦いではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化しました。 3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:1254年 - 1258年)の死後、摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)が実権を握りました。 1259年9月、ペラゴニアの戦い(英語版)で、アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開きました。 フレグの西征で1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していました。さらに1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、1262年11月にはベルケ・フレグ戦争でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになりました。 1265年に、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになりました。その後も1271年、1274年、1282年、1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していました。 1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属しました。この間の1282年に、テッサリアで反乱が起こり、ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送りましたが、ミカエル8世は病気になり急死しました。 ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いました。1286年に、セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れました。 アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなりました。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃されました。 オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年) 1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小されました。 14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまいました。 1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代でした。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになります。 14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねましたが、いずれも失敗に終わりました。 この時期の帝国の唯一の栄光は文化です。 古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれました。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えました。 滅亡(1453年) ![]() コンスタンティノープルの陥落 Justinian-of-Byzantium - Theophilos Hatzimihail, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons 1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲しました。ハンガリー人のウルバン(Orban)が開発したオスマン帝国の新兵器「ウルバン砲」による砲撃に曝され、圧倒的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けました。 5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡します。 これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになります。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多いと言えます。同年には百年戦争が終結し、この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランス(フランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化がありました。 1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなりました。 なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗りました。また、1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張しています。 つづく |