シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) 東ローマ帝国1 東ローマ帝国2 東ローマ帝国3 東ローマ帝国4 東ローマ帝国5 東ローマ帝国6 東ローマ帝国7 東ローマ帝国の都市1 東ローマ帝国の都市2 東ローマ帝国の都市3 次は東ローマ帝国7です。 ◆東ローマ帝国7 文化 概要 古代ギリシア・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化であり、正教会を信仰する諸国および西欧のルネサンスに多大な影響を与えました。また一部の建築技術などはイスラム文化と相互に影響し合っています。 ギリシャ人が国民の多くを占め、キリスト教を国教とした東ローマ帝国で、ヨーロッパの文化の二大基盤といわれる「ヘレニズムとヘブライズム」が時には対立をしながらも融合して形成された文化であり、ヨーロッパの文化形成に与えた影響は大きいといえます。 文学 ギリシャ語を日常語・公用語とした東ローマ帝国では古代ギリシアの古典作品が尊重されており、官僚・知識人の間ではホメロスの詩が暗誦できるのが常識とされていました。 古代ギリシア・ローマの古典作品の大半は、ギリシア人が多数を占めていた東ローマ帝国の下で伝えられてきたものであり、それらの写本が帝国滅亡後にイタリア等へ伝えられてルネサンスに大きな影響を与え、結果として現代まで古代ギリシア・ローマの古典作品が残されることになりました。 例えば、歴史書はヘロドトスやトゥキディデスなどの古代ギリシアの歴史家による歴史書の形式に倣って書かれたものが多いと言えます。 著名なのは、6世紀のプロコピオスがユスティニアヌス1世の業績について書いた『戦史』『建築について』、および同一作者がユスティニアヌス夫妻の悪口を書いた裏ノート『秘史』、10世紀の『テオファネス年代記』、11世紀に宮廷で権力を振るった官僚ミカエル・プセルロスの『年代記』、12世紀の皇帝アレクシオス1世コムネノスの娘アンナ・コムネナの『アレクシオス1世伝』、13世紀の官僚・知識人であるニケタス・コニアテスが書いた『年代記』、末期の皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの『歴史』などがあります。 これらの歴史書や神学書等は、大半が古典ギリシア語で書かれ、さらにはロシア人やトルコ人といった周辺諸民族を、あえて古代にその地にいた「スキタイ人」・「ペルシア人」と表記するなど、東ローマの知識人の古典趣味は徹底したものでした。 その他の文学作品としては、叙事詩や宗教詩・宗教音楽、小説(ビザンティン小説)、哲学書などがあります。これらも古代の詩や音階、プラトンやアリストテレスの哲学書に倣って書かれ、中には最近まで古代の作品だと思われていた程のものまでありますが、古典ギリシア語ではなく、当時の民衆の言葉で書かれた詩や小説も少数では有るが存在します。 また歴代の東ローマ皇帝の中には、前述のヨハネス6世の他にも10世紀のレオーン6世・コンスタンティノス7世親子や帝国末期のマヌエル2世パレオロゴスなどのように、自ら優れた詩や歴史書などを残した者もいます。コンスタンティノス7世は学芸を奨励し、後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる文化の黄金時代を築きました。 彼が息子ロマノス2世のために残した『帝国統治論』(帝国の周辺諸民族や諸外国の地理についての情報、帝国の外交について記した書)および『儀式の書』(古代末期から10世紀に至る皇帝の即位式や凱旋式・結婚式などの儀礼について記した書物)は当時の東ローマ帝国や、ロシア人などの周辺諸民族を知る上での貴重な資料となっています。 なお、ビザンチン文化のうち建築、都市、美術については頁を改め特集しています。 宗教 国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラスによると、伝統的なギリシャ神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており[99]、15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。 正教会 帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成しています。 東ローマ帝国の政教の関係を指して「皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがありますが、これには大きな語弊があります。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していました。 しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にあります。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議です。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理はありませんでした。 実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体ですが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていました。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばありました。 宗教論争 東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込みました。 これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されましたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもあります。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していました。 また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのです。 この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないでしょう。 法律 帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものでしたが、古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていませんでした。5世紀の皇帝テオドシウス2世は、438年にローマ法史上では初となる官撰勅法集『テオドシウス法典』を発布し、この問題を解決しようとしました。 この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものでしたが、結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになりました。 6世紀半ばにはユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、『学説彙纂』、『法学提要』が編纂されました。これら法典は後に西欧へも伝わり『ローマ法大全』と名付けられることになります。 ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられました。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布[103]、9世紀後半のバシレイオス1世による『法学提要』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『勅法彙纂』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典』(帝国法)編纂です]。 またユスティニアヌス1世の時代は、法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもありました。例えばユスティニアヌス1世の以前には、皇帝アルカディウスによって、皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていました。 これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのですが]、ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ、皇帝の回答は「判例」となりました。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言しました。これによって皇帝は、ヘレニズム的な「生ける法」となったのです。 経済 ![]() レオーン3世とコンスタンティノス5世を描いたノミスマ Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けました。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通しました。 特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄しました。 しかし、12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行ったヴェネツィア共和国などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどりました。 主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかったのです。 それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていましたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまいまし。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えています。 つづく |