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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

参考・芝丸山古墳と忠敬記念碑


青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

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参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧

 かつて、江戸時代芝増上寺、その後東京都港区芝増上寺にあった徳川秀忠の霊廟が第二次世界大戦前で他の霊廟とともに焼失し、現在丸山古墳となっている場所を調査したことがあります。

 以下のグーグルマップは丸山古墳がある場所です。


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ

 地番:東京都港区芝公園 丸山古墳


◆丸山古墳とは

 下は芝丸山古墳についての東京都教育委員会の解説です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 上記の案内板では、全長は106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mの前方後円墳であるとあります。また標高は約16mの台地端に位置しとあり、立派な古墳だったようです。

 一方、下はWikipediaにある丸山古墳の説明です。墳丘長は最大125メートルもあるり、都内では最大級の規模です。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています。

◆丸山古墳
 
 東京都港区芝公園にある前方後円墳。東京都指定史跡に指定されています。

 築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模です。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています。

 1892年(明治25年)、3年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じました。
 
 翌年の1893年(明治26年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見しました。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できませんでした。1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡に指定されています。

出典:Wikipedia

 私たちがこの古墳を調査したきっかけは、徳川二代将軍秀忠(台徳院)の第二次世界大戦で焼失した霊廟や宝塔(墓)について調べていたときのことです。

 ところで、この芝丸山古墳と台徳院の霊廟や宝塔(墓)との関連は明らかになっていませんが、上記2つの解説では、江戸時代以降、原型はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削りとられているとあり、また江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられています、とあります。

 台徳院の霊廟や宝塔(墓)の造営、構築は、江戸時代前期であることははっきりしていることから、私達の推察では、台徳院の霊廟や宝塔(墓)の造営、構築をこの小高い丘に行った際、丸山古墳をかなりの程度、切り土などをすることで原型を損ねた可能性があります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15


丸山古墳がある場所
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

◆丘の頂上にあった伊能忠敬の石碑

 ところで、この丸山古墳の頂上にも現在、伊能忠敬の大きな立派な石碑があります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 以下は伊能忠敬記念碑の前の青山貞一です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

 周知のように伊能忠敬の石碑は全国各地にありますが、青山の友人で千葉県佐原市に生まれ住んでいた友人(すでに故人、豊福さん)が伊能忠敬の出身が佐原であることを聞かされました。

 友人は伊能忠敬が全国を行脚し,日本地図を作成したことに鑑み、75歳超の高齢であったにもかかわらず世界40カ国近くの国々に、アマチュア無線の機器とアンテナを持ち込み、運用し世界中の無線家と交信するなどの快挙を達成されています。

伊能 忠敬(いのう ただたか)

 延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家です。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにしました。1883年(明治16年)、贈正四位。

出典:Wikipedia

 以下は伊能忠敬記念碑のあった碑文です。 この碑日文は、1965年5月
社団法人 東京地學協會が設置したものです。

碑文

 忠敬先生は1745年(延享2年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。

 その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

1965年5月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-15
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-9-15

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