千葉県北東部調査 伊能忠敬 (第一次測量 蝦夷地) 青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
千葉視察総合目次 隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本) 三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸) 五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国) 七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次) 九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 地図作成作業と伊能忠敬の死 地図の種類・特徴・精度、測定方法等 伊能忠敬記念館 伊能忠敬年表 参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑 参考・忠孝測量の碑と星座石 参考・伊能忠敬九十九里記念公園 参考・伊能忠敬参照文献一覧 ◆伊能忠敬 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-12-11 伊能忠敬銅像(香取市佐原公園) 出典:Wikimedia Commons 伊能忠敬の歩幅(2尺3寸)。佐原駅前にて。 出典:Wikimedia Commons 第一次測量(蝦夷地) 測量の許可 忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まっていました。 寛政4年(1792年)、ロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港し通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起きました。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行いました。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成しました。 至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出ました。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いであったのです。そしてこの事業の担当として忠敬があてられました。忠敬は高齢な点が懸念されましたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であったのです。 至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられませんでした。寛政11年(1799年)から寛政12年(1800年)にかけ、佐原の村民たちから、今までの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されましたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけ測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられています(この箱訴は第一次測量後の享和元年(1801年)に認められ、忠敬は今までの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなりました。) 幕府は寛政12年の2月ごろに、測量は認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めました。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができません。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えました。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなりましたが、測量器具などの荷物の数は減らされました。 同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下されました。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされました。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえます。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日当たり銀7匁5分が手当として出されました。 忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出しました。そこでは自らの思いが次のようにつづられています。 (前略)私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居ったのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。 この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金もつかいました。隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。 したがって、せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に間棹や間縄を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなどいたしますとき、必ず御役人衆の御咎にもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。 (中略)ありがたいことにこのたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差し上げたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になればかさねがさねありがたいことでございます。(中略)地図はとても今年中に完成できるわけではなくおよそ三年ほど手間取ることでございましょう。(後略) 出発 忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発しました。忠敬は当時55歳、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となりました。 富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいきました。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めました。 千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わりました。寒くなる前に蝦夷測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動しています。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩(みんまや)に到達しました。 三厩からは船で箱館(現・函館市)へと向かう予定でしたが、やませ(以下の注参照)などの影響で船が出せず、ここに8日間滞在しました。9日目に船は出ましたが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かいました。 注)やませ=偏東風(山背)とは、北日本の(主に東北地方)太平洋側で春から夏(6月?8月)に吹く冷たく湿った東よりの風のこと。寒流の親潮の上を吹き渡ってくるため冷たく、水稲を中心に農産物の生育と経済活動に大きな影響を与えます。やませが続いた場合、太平洋側沿岸地域では最高気温が20℃程度を越えない日が続きます。 下層雲や霧のほか、しばしば小雨や霧雨を伴う事が多く、日照不足と低温による水稲の作柄不良(冷害)を招くきます。気象用語的には山を越えて吹いてくるフェーン現象の性質を有する乾燥した風を意味し北日本の太平洋側に吹く風とは異なっています。 箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山に登り方位の測定をおこないました。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たので、金を与えて本州側の三厩行きの船に乗せました。 1995年発行の切手 蝦夷測量 5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まりました。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにしました。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていましたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えました。 一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行ないました。海岸沿いを通れないときは山越えました。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多かったのです。また、本州のような宿が無かったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用しました。難所続きで草鞋もことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は「地獄に仏」のようだったといいます。 7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(えりも町)に向かいましたが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かいました。その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達しました。 一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定でした。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたので、そのまま引き返すことにしました。 8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路につきました。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着しました。 第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日でした。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことですが、この時の測量日記には林蔵のことは書かれていません。 地図作成・事後処理 11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やし地図を完成させました。地図製作には妻の栄も協力しました。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出しています。 12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取りました。忠敬は測量に出かける時に100両を持参し、戻ってきた時は1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになります。後世の試算によると、この時忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して約1200万円でした。また忠敬はこの他に測量器具代として70両を支払っています。 忠敬の測量について、師の至時は、「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価しています。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」とつづっています。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていません。 二次測量(伊豆・東日本)につづく 千葉視察総合目次 |