伊能忠敬と日蓮の足跡を たどる千葉の旅 伊能忠敬 (第二次測量・伊豆・東日本東海岸) 青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
千葉視察総合目次 隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本) 三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸) 五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国) 七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次) 九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 地図作成作業と伊能忠敬の死 地図の種類・特徴・精度、測定方法等 伊能忠敬記念館 伊能忠敬年表 参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑 参考・忠孝測量の碑と星座石 参考・伊能忠敬九十九里記念公園 参考・伊能忠敬参照文献一覧 ◆伊能忠敬 第二次測量(伊豆・東日本東海岸) 計画 蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられました。 寛政12年(1800年)の暮、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すようにすすめられ、忠敬は案を作成し、寛政13年(1801年)正月に桑原と至時の添削を受けました。 この計画は、行徳から本州東海岸を北上して松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものでした。 途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎が無いことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画でした。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求しました。 しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、「船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよい」との返答を得ました。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発しましたが、結局、忠敬は桑原、至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、「これが認められなければ蝦夷地をあきらめて本州東海岸のみを測量する」という案を出すことで納得しました。 最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆半島以東の本州東海岸を測量することに決められました。手当は前回より少し上がって1日10匁となりました。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になったのです。 伊豆測量 銚子測量記念碑 出典:Wikimedia Commons 出典:甲斐・駿河の図/国立国会図書館蔵 享和元年(1801年)4月2日、一行は江戸を出て東海道を西に向かいました。品川で親類・知人の見送りを受けています。 今回の測量から、歩測ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることにしました。一行は三浦半島を一周し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参詣、さらに伊豆半島を南下して、5月13日に下田に到着しました。 伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れる中で船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど、苦労を重ねました。荷物を運ぶのにも労を要しましたが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということなので、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにしています。 5月17日に下田を発ち、西海岸を廻って5月30日に三島に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取ります。三島からは東海道を東進して箱根の関所を越え、6月6日に北品川宿へ到着。いったん桑原や至時に報告しました。 本州東海岸測量 伊能忠敬測量の碑・星座石(岩手県釜石市)。1814年、 葛西昌丕によって建てられた。 出典:Wikimedia Comons 6月19日、一行は再び江戸を発ち、房総半島を測量しながら一周し、7月18日に銚子に着きました。銚子には9泊し、富士山の方角などを確かめました。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復しています。 7月29日に銚子を出発、太平洋沿いを北上します。しばらくはおおむね順調に測量できていましたが、8月21日に到着した塩釜湾岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測しています。さらに翌日測量した松島や、その先の釜石、宮古までの間も、地形が入り組んでいる上に断崖絶壁だったため、たびたび舟の上からの測量となりました。 10月1日に宮古湾を越え北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に下北半島の尻屋に到着、そして半島を一周して奥州街道、松前街道を進み、11月3日、三厩に辿り着きました。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下し、12月7日に江戸に到着しました。 地図作成等 忠敬は江戸に戻りましたが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていませんでした。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられました。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」と立腹しています。 地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られました。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出しました。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出しています。 三次測量、四次測量につづく 千葉視察総合目次 |