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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

伊能忠敬
(隠居と暦・観測・測量)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地)  二次測量(伊豆・東日本)
三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸)
五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国)
七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次)
九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 
地図作成作業と伊能忠敬の死
地図の種類・特徴・精度、測定方法等
伊能忠敬記念館  伊能忠敬年表
参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑
参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧
 
伊能忠敬


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11



伊能忠敬銅像(香取市佐原公園)
出典:Wikimedia Commons


伊能忠敬の歩幅(2尺3寸)。佐原駅前にて。
出典:Wikimedia Commons


弟子入り

 50歳の忠敬は寛政7年(1795年)、江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえます。

 ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起きていました。当時の日本は宝暦4年(1754年)につくられた宝暦暦が使われていましたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かったのです。

 そこで幕府は松平信明、堀田正敦を中心に、改暦に取り組みましたが、幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにしました。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府します。

注)高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日(1764年12月22日) - 享和4年1月5日(1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者です。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たしました。また、伊能忠敬の師としても知られています。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいます。

 同年、忠敬は高橋至時の弟子となりましたが、50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。弟子入りのきっかけは、昔の中国の暦、『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気付いた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられています。

暦学への取り組み

 弟子入りした忠敬は、19歳年下の師至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励みました。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていました。

 至時は弟子に対し、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けてケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていました。

 しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになったのです。

 寛政8年(1796年)9月から1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間、間重富が指導につきました。同年11月に重富から至時にあてた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かるとあります。

天体観測

 忠敬は天体観測も教えを受けました。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入しました。さらに後には、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、そろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行なっていました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀等々で、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったといいます。

 観測は難しく、入門から4年の寛政10年(1798年)でもまだ至時からの信頼は得られませんでしたが、毎日観測を続けました。太陽の南中を測るために外出しても昼には必ず家に戻るようにし、また星の観測も悪天候の日を除いて毎日行っています。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始め、話の途中で席を立って急いで家に帰っています。

 忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などです。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っています。

子午線一度の距離測定

 至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させます。しかし至時は、この暦に満足しませんでした。暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていました。

 地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できますが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかったのです。

 忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていました。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量を行なっています。

 そしてその内容を至時に報告すると、至時からは、「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答されました。そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案されました。


一次測量(蝦夷地) につづく    千葉視察総合目次