伊能忠敬と日蓮の足跡を たどる千葉の旅 伊能忠敬 (第七次測量、九州第一次) (第八次測量、九州第二次) 青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
千葉視察総合目次 隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本) 三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸) 五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国) 七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次) 九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 地図作成作業と伊能忠敬の死 地図の種類・特徴・精度、測定方法等 伊能忠敬記念館 伊能忠敬年表 参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑 参考・忠孝測量の碑と星座石 参考・伊能忠敬九十九里記念公園 参考・伊能忠敬参照文献一覧 ◆伊能忠敬 第七次測量(九州第一次) 測量 第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始しました。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子(現・東京都北区)から行ないました。御成街道や岩淵の渡し(荒川)などを利用して岩槻まで行き、岩槻から熊谷へ向かい中山道に入りました。 中山道を武佐(現近江八幡市)まで測り、そこから、東海道へ向かう御代参街道を土山(現甲賀市)まで測りました。土山から淀、西宮を経て山陽道を行き、11月には備後国神辺(現福山市)にて儒学者として有名な菅茶山と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈しています。その後、豊前小倉(現・北九州市)で越年し、ここから九州測量を始めました。 小倉から海岸線を南下し、2月12日に大分、28日に鳩浦(現・津久見市)に入りました。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測しましたが、天候が悪く失敗しました。 4月6日に延岡、27日に飫肥(現・日南市)に到着。ここで支隊を出して都城方面の街道測量に当たらせました。本隊はそのまま南下して大隅半島をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に鹿児島に着きました。 鹿児島で桜島の測量や木星の観測を行なってから、一行は薩摩半島を南下し、7月8日に山川湊に着いています。ここから舟に乗り種子島、屋久島の測量を行う予定でしたが、天候が悪かったので後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野(現・いちき串木野市)付近から甑島に渡って測量。8月19日に串木野に戻った後、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って肥後国へと向かわせました。 両隊はその後合流して天草諸島を測りました。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は種子島、屋久島の測量は諦め、いったん江戸に帰ることにしました。忠敬らは天草周辺の街道を測った後、九州を横断して大分で越年しました。 翌文化8年(1811年)、大分を出発して本州に渡り、中国地方の内陸部などを測量しながら帰路につきました。そして5月8日、江戸に到着しました。 種子島・屋久島測量に関して 今回の測量では天候の関係などで種子島・屋久島に渡ることができませんでした。薩摩の役人は忠敬に対し、「波が荒いので、両島に渡る時期は3-4月頃にして、6-7月頃に帰るようにしないといけない」と述べています。元々忠敬と景保は両島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくても良いと申し合わせていたので、断念する結果となりました。 しかし結果的には幕府の方針で、次回の九州測量の計画に両島への渡航は組み込まれました。両島を測ろうとした理由は定かではありませんが、忠敬に全国の測量をさせると共に、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されています。なお忠敬は両島の測量が決まった時、薩摩藩の担当者に対して硫黄島などの測量も希望しましたが、これは実現していません。 再会 文化7年(1810年)、かつて忠敬が勘当した娘イネが、佐原の家に戻ってきました。イネは夫盛右衛門の死没後に剃髪し、名を妙薫と改めていました。忠敬や親類に詫びを入れた妙薫は、以後は景敬の妻りてと共に伊能家を支え、旅先の忠敬ともたくさんの手紙をやり取りし、老年の父を気遣いました。 また、忠敬は江戸で九州測量の地図を作成している時、間宮林蔵の訪問を受けました。忠敬は林蔵に1週間かけて測量技術を教えました。後に林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷北西部の測量を行うことになります。 第八次測量(九州第二次) 種子島・屋久島・九州北部測量 文化8年11月25日、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発しました。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬あてに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだったことが分かります。 一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年(1812年)1月25日に小倉に着きました。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した鹿児島から山川(現指宿市)を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着きました。 屋久島では二手に分かれ、忠敬は北半分を測量、南半分は坂部が担当しました。13日間かけて測量し、その後11日風待ちをして、4月26日に種子島に渡りました。 5月9日まで測量し、風待ち後、5月23日に山川に戻りました。その後九州内陸部を手分けして測量しながら北上し、小倉に戻りました。小倉から九州北部の海岸線を通って博多に出、佐賀、久留米を経由して、島原半島を一周し、大村湾を測り、佐世保で越年しました。 文化10年(1813年)、佐世保近くの相浦(相神浦)で新年を迎えた忠敬は、 七十に近き春にぞあひの浦九十九島をいきの松原 と詠みました。そして九十九島と呼ばれる島々と複雑な海岸線を測りながら平戸へ向かい、平戸島などの島を測量してから、3月13日に壱岐島に渡り、15日間かけて壱岐を測量しました。 壱岐の次は対馬に渡る予定でしたが、対馬藩士の中村郷左衛門は忠敬に対し、「実測を取りやめてもらえないか」と申し出ました。対馬には既に元禄13年(1700年)に作られた精密な地図『元禄対馬国絵図』があることだから、実測はやめにして、朝鮮通信使の礼で駆り出された農民たちを休ませたいという理由でした。実際、『元禄対馬国絵図』は精度が極めて高い優れた地図で、忠敬も高く評価しました。しかし対馬の正確な位置を決めるには天体観測を行う必要があるため、測量作業は実施されました。 対馬は53日間かけて測量しました。また、交会法を使って朝鮮半島の山々の位置も測りました。忠敬は測量中、中村郷左衛門に対して、高橋家の息子(景保)も成長したし、間宮林蔵や副隊長の坂部貞兵衛もいることだから、私はこの御用を終えたら元の隠居に戻りたいと、自らの思いを話しています。5月21日に対馬の測量を終え、いったん平戸に戻ってから、5月23日に五島列島の宇久島に渡りました。 九次測量、十次測量につづく 千葉視察総合目次 |